種田山頭火 ・・・妻子を捨て行乞の人生を送り自由に一筋の道を詠い続ける

 種田山頭火は生きている時には、ほとんど無名で、その一生を終えたが、死後、評価され「自由律俳句」の代表の一人となった。妻子を捨て、世間を捨て、行乞(ぎょうこつ=修行僧が各戸で物乞いをして歩くこと)の人生を送り、自然と一体になり、自己に偽らず、自由に一筋の道を詠い続けた山頭火は、生涯に約8万4000句を詠み捨てたという。生没年は1882(明治15)~1940(昭和15年)。

種田山頭火は現在の山口県防府市に、父竹次郎、母フサの長男として生まれた。本名は正一。種田家はこの付近の大地主で、父は役場の助役なども務める顔役的存在だった。その父の、妾を持ち芸者遊びに苦しんだ母が、自宅の井戸に身を投げて死んだ。山頭火11歳の時のことだ。この母の自殺が彼の生涯に大きな衝撃を与えた。

山頭火は1902年(明治35年)、早稲田大学文科に入学したが、2年後、神経衰弱のため退学して帰郷。その後、隣村の大道村で父と酒造業を営む。1909年(明治42年)佐藤サキノと結婚、翌年長男健が誕生。1911年(明治44年)、荻原井泉水主宰の自由律俳誌「層雲」に入門した。この頃から「山頭火」の号を用いる。29歳のことだ。狂った人生の歯車は順調に回りかけたかに見えたが、そうではなかった。1916年(大正5年)、家業の酒造業に失敗し、家は破産したのだ。家業を省みない父の放蕩と、度を過ぎた父子の酒癖が原因だった。父は他郷へ、山頭火は妻子を連れて句友のいる熊本へ引っ越す。

熊本へ移った山頭火は額縁店を開くが、家業に身が入らず結局、1920年(大正9年)、妻子と別れて上京する。その後、父と弟は自殺する。東京での山頭火は定職を得ず、得るところもないまま1923年(大正12年)、関東大震災に遭い、熊本の元妻のもとへ逃げ帰る格好となった。

不甲斐ない自分を忘れようと、酒におぼれ生活が乱れた。そして、生活苦から自殺未遂を起こした山頭火を、市内の報恩禅寺の住職、望月義庵に助けられ寺男となった。1924年(大正13年)、出家した。法名・耕畝(こうほ)。市内植木町の味取(みどり)観音の堂守となった。

1925年(大正15年)、寺を出て雲水姿で西日本を中心に行乞の旅を始め、句作を行う。1932年(昭和7年)、郷里の山口の小郡町に「其中庵(ごちゅうあん)」を結んだ。その後も行乞、漂泊することが多く、諸国を巡り、旅した。1939年(昭和14年)、松山市に移住し、三度目の庵である「一草庵(いっそうあん)」を結び、翌年この庵で波乱に満ちた生涯を閉じた。隣室で句会が行われている最中に、脳溢血を起こしたものだったという。

季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる、前衛的な「自由律俳句」。山頭火はその自由律俳句の代表として、同じ荻原井泉水門下の尾崎放哉(ほうさい)と並び称される。山頭火、放哉ともに酒癖によって身を持ち崩し、師である井泉水や支持者の援助によって、生計を立てているところは似通っている。しかし、その作風は対照的で「静」の放哉に対し、山頭火の句は「動」だ。

どうしようもないわたしが歩いている
山頭火の句には「近代人の自意識」がある。この句の中には二人の山頭火がいる。一人は、どうしようもない心を抱いて歩いている山頭火であり、もう一人はそれをじっと見ている山頭火だ。この自意識は小説分野の「私小説」にも通じるものだ。

(参考資料)梅原猛「百人一語」

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