武家社会においては、凡夫のトップに代わって毀誉褒貶を一身に浴びねばならない場合も少なくなかった。徳川九代将軍家重、十代将軍家治の二代に仕えた田沼主殿頭意次もその一人だ。唯一の庇護者であった将軍家治の死後、失脚した田沼意次に浴びせかけられたデマや中傷、ワイロ伝説は、彼の卓越した政治手腕に対する保守派門閥大名や旗本たちの嫉妬と憎悪によるものだ。
江戸時代を通じて、ワイロにまみれた代表的な“汚れた政治家”の一人に挙げられる田沼意次だが、近年の様々な角度からの研究で彼が執った、それまでの米経済を軸とする重農主義を、貨幣経済を軸とする重商主義に切り換えた大胆な経済政策を評価。偉大で進歩的な政治家の一人ともいわれるようになっている。
今回の田沼の言葉は唯ひとつ子孫のために残した家訓とも言うべき遺書にある処世信条で、財政問題について『勝手元不如意にて貯えなきは、一朝事ある時の役に立たず、御軍用に差し支え、武道を失い、領地頂戴の身の不面目、これに過ぐるものなし』とあるものだ。武士の収入は予定以上に増えることはない。凶作による収入減、不時の出費、それらが重なれば憂うべき結果を招くものだ。したがって、『常に心を用い、いささかの奢りなく、油断せず要心すべし』と格別の注意を与えている。
ワイロはいつの時代にもあった。例えば平安貴族は国司になるために権門の筋に莫大なワイロを贈って、その職を得るための猟官運動が盛んだった。中世では、国司になると任期中は莫大な富が得られ、都に戻ってからも生涯を安泰に暮らせたという。それは江戸時代も同様で全国(藩)でまかり通っていた。究極的な例を挙げると、あの清廉潔白をもって鳴った白河藩主・松平定信が、四位の官位の依頼に田沼邸を訪れているのだ。
では、そのワイロの額は?江戸時代、大老や老中職の場合はよくわからないが、長崎奉行職は2000両、目付職は1000両と相場が決まっていたといわれる。
猟官運動にこれほどのワイロが動いたのは、他の時代と比べるとやはり少し異常といわざるを得ない。しかし、それは幕府の創始者であった徳川家康の「権力の持てる譜代大名の給与は安く、権力の持てない外様大名の給与は多くする」という統治法にこそその温床があった。江戸城で老中その他の要職に就いた者の給与は、ほとんどが数万石であり、家重の小姓から異例の大出世を果たし大名にまで上った田沼自身にしても、遠江相良藩の6万石にすぎない。
“ワイロ”政治ともいわれた田沼のどこが特別で他と異なっていたのか?田沼は収賄を決して悪事だとは思っていなかった。彼自身が言っていることを意訳、換言すれば、「収賄は正当なもの。そして、それに報いるために請託をうけるのも当たり前」と言っている。現代の感覚でいえば呆れた話だが、徳川期の基準でいえばそれは異常ではなかったのだ。徳川時代における武士の収賄は構造的なものであって、田沼個人の私意に基づくものではないということだ。
だからこそ、そのことに何のうしろめたさも感じることなく、それまでタブーとされていた様々な諸施策を打ち出せたのだ。まず「米経済」にこだわらず、貨幣経済を進行させている連中=商人と手を組んだことだ。彼は「士農工商」の最も劣位に置かれ課税対象外の存在だった商人に、新しい税「運上」と「冥加金」を課した。次に本来的には鎖国の下だが、フカヒレ・イリコ・アワビ・コンブなどの海産物をはじめ地域産品の付加価値を高めて積極的に外国(中国・オランダ)と交易する施策を打ち出す。また漢方薬の国産化を図り、平賀源内に日本国内での薬草探しを命じている。
このほか、中国の本以外は読むことが禁じられていたが、田沼はオランダの本を読むことを許可した。これが杉田玄白や前野良沢らの翻訳本「解体新書」となる。これは彼の失脚によって実現しなかったが、下総(千葉県)の印旛沼と手賀沼の干拓、そして蝦夷開発(北海道に116万町歩の開拓、7万人移住の計画)、千島・樺太の開発にも関心を寄せた。広い視野からのこうした大構想は、当時の諸大名や旗本たちにはとても思いもつかぬ施策であったし、ただ妬ましさを覚えるだけだった。この鬱屈が失脚後の“田沼バッシング”を増幅させたわけだ。
(参考資料)童門冬二「江戸の賄賂」 神坂次郎「男 この言葉」、佐藤雅美「主殿の税 田沼意次の経済改革」