源実朝は鎌倉幕府の第三代征夷大将軍だが、その実態は母北条政子と北条氏の“操り人形”であって、実権の伴わない将軍職を担ったに過ぎなかった。そのため、実朝は政治と関わりの薄い世界、中でも和歌の世界に精力を注ぎ多くの優れた作品を残した。また、京都風の文化と生活を享受することに楽しみを覚え、朝廷に対し官位を望み1218年、武士として初めて右大臣に任ぜられた。だが、不幸にもその翌年、鶴岡八幡宮で兄頼家の子、公暁に襲われ亡くなった。これにより、源氏の将軍は三代で絶えた。
ただ、この事件には謎の部分が多いのだ。公暁をそそのかして実朝を襲わせた首謀者は誰なのか?単刀直入にいえば北条義時の影が垣間見られるのだが…。ただ、もう少し俯瞰でこの事件をみてみると、三浦氏の存在もクローズアップされてくる。実朝の生没年は1192(建久3)~1219年(建保7年)。
源実朝は頼朝の次男として生まれた。幼名は千幡。別名は将軍家、鎌倉殿、右大臣など。鎌倉幕府の開祖、偉大な父頼朝の健在時は何不自由なく過ごしていたが、1199年(正治元年)父が急死すると、周囲の情勢は一変した。実朝8歳のときのことだ。頼朝亡き後、その主導権をめぐって、重臣梶原景時をはじめ兄頼家の長子一幡、比企能員、さらに畠山一族、和田一族らが、次々と実朝の母政子と、外戚の北条氏の手によって殺戮されていったのだ。
そんな状況の中で実朝は多感な少年期を過ごした。そして1203年(建仁3年)、第二代将軍・兄頼家が将軍職を失い伊豆国へ追放されると、跡を継ぐ。当時の千幡に朝廷から実朝の名を賜り、征夷大将軍に任ぜられた。実朝12歳のときのことだ。しかし、幕府を支える重臣たちの間では争いが続き、とりわけ北条氏による陰湿な策謀、粛清が繰り返され、政治は北条氏による独裁化へ進みつつあった。そのため、実朝の政治への出番はなく、彼は北条氏の操り人形に過ぎず、実権のない三代将軍を演じることを余儀なくされた。
そんな実朝が生きがいとしたのが和歌の世界だった。彼は藤原定家に師事し和歌を学んだ。武士団の棟梁であるはずの鎌倉殿が、京都風の文化と生活を享受することに楽しみを覚え、1204年(元久元年)京より坊門信清の娘を正室に迎えたのだ。そんな鎌倉殿をみせられて、関東武士たちの間で失望感が広がっていった。
こうした状況の中で、実朝暗殺事件は起こった。この事件はこれまで、北条義時の企んだ陰謀と思われてきた。彼の辣腕ぶりをみれば、そうみられるのもやむを得ないことだし、政治・軍事両面をわがものとした義時が、将軍の入れ替えを計画したのではないかと誰しも考えるところだ。ただ、この暗殺事件を企図したのが、北条氏でなくて、ライバル潰しを目的としたものだったと仮定すれば、事件の首謀者は北条氏のライバル=三浦氏一族とも見られるのだ。
その根拠の一つが乳母(めのと)の問題だ。当時実朝の乳母は母政子の妹の阿波局で、実朝を暗殺した甥の公暁の乳母は三浦義村の妻だった。阿波局の背後にはもちろん北条氏がいる。当時の習慣として、養君は乳母一族の「旗」だった。その「旗」があるからこそ、乳母たちは権力を振るえるのであって、「旗」を潰してしまっては元も子もなくなる。また、将軍はあくまでも貴種であって、執権がその座に就くことはできないのだ。
こうした権威と権力の密接なつながりと、超え難い溝がはっきり認識できれば、北条氏が実朝を殺す理由がないことが分かるのではないか。実朝暗殺事件の真相は公暁・三浦氏連合の実朝・北条氏連合に対する挑戦だったとみるのが妥当だ。ただ、このとき公暁側は大きなミスを犯した。目指す実朝は殺したが、義時と思って別人の源仲章を殺してしまったのだ。
(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「炎環」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、安部龍太郎「血の日本史」、司馬遼太郎「街道をゆく26」