仏教は6世紀前半、高度な外来文化として伝えられた。僧侶は中国語に翻訳された経典を解読するため、特殊な学問を修めなければならなかった。仏教を学問ではなく、信仰として捉え直そうとしたのが法然(ほうねん)だ。比叡山に登った法然は、30年間の激しい修学の末、「阿弥陀仏と人間をつなぐものは、仏の名を唱えること(=念仏)以外にない」という専修念仏の考えを確立。1175年、京都の町に降り、新しい教えを広め始めた。だが、比叡山や奈良の旧仏教側の弾圧に遭い、四国に流罪となった。そして、罪を許された翌年(1212年)亡くなった。法然の生没年は1133(長承2)~1212年(建暦2年)。
浄土宗の開祖、法然は美作国久米(現在の岡山県久米郡久米南町)の押領使・漆間時国(うるまときくに)と母・秦氏の「君」との子として生まれた。法然は房号で、諱は「源空(げんくう)」。幼名を「勢至丸(せいしまる)」。通称「黒谷上人」、「吉水上人」とも呼ばれた。尊称は元祖法然(源空)上人、本師源空・源空上人。
『四十八巻伝』(勅伝)などによると、1141年(保延7年)、法然が9歳のとき、父が不仲だった、稲岡の荘園を管理していた明石貞明に、夜討ちを仕掛けられ重傷を負う。そして臨終が近いことを悟った父が、仇討ちは断念し、「汝は俗世間を逃れて出家し、迷いと苦悩の世界から脱せよ」と遺言され、法然(=勢至丸)は出家を決意する。
その後、法然は比叡山に登り、初め源光上人に師事、15歳(異説には13歳)のときに同じく比叡山の皇円の下で得度。さらに比叡山黒谷の叡空に師事して「法然房源空」と名乗った。「源空」の「源」は源光上人、「空」は叡空から、それぞれ一字を取り、名付けたものといわれる。法然はこの後、約30年間にわたって、迷いの世界から解脱できる法門を求めて、ひたすら求道の道を進む。1156年(保元元年)、24歳のとき比叡山の師・叡空に暇乞いしたのを皮切りに、嵯峨野「清涼寺」、奈良の「興福寺」、京都の「醍醐寺」「仁和寺」などの各寺に高僧を訪ね歩き、教えを請うたのだ。しかし、求める教えはどこにも得られなかった。
そして1175年(承安5年)、唐の善導大師が著した『観無量寿経疏』(『観経疏』)を何度も読み返すうち、光明を見い出す。その中の「いついかなるときでも、一心に南無阿弥陀仏と唱えることを続けていけば、その者は阿弥陀仏の本願力で極楽浄土に往生できる」「南無阿弥陀仏と念仏を唱えれば、すべての人がもれなく救われる。なぜなら阿弥陀如来の誓い(本願)だからである」の一文を読み、求めていたものがこれだと得心したのだ。そこで法然は、一切の修行を捨て、ただ一向に念仏を唱える法門に帰依し、ここに浄土宗の開宗となった。法然43歳のときのことだ。1198年(建久9年)、法然は関白・九条兼実の要請を受けて、浄土宗の立教開宗の書『選択本願念仏集』を著している。
法然が唱導している念仏の教えは、人々の間に瞬く間に広まっていった。そのため、旧仏教の比叡山や奈良からは非難を浴びるようになり、やがて弾圧を受けるまでになっていく。法然の本願念仏の教えとは異なる教えを、さも法然の教えのように吹聴して回る僧も数多くあらわれた。法然の教えに便乗して「念仏すればすべて許される」などの言動が横行していたのだ。
そのため、比叡山の僧侶らはその責任を法然に取らせようとした。法然にとっては無実の罪を着せられたわけだが、当時の比叡山の影響力は国家宗教的側面もあり、強大だった。また、奈良の興福寺をはじめとして、当時既成の仏教教団すべてから念仏の停止を奏上されるほど、法然と浄土宗への弾圧は激しさを増していた。裏返せば、それほど法然の本願念仏の教えが、人々の間にしみ込むように広がり、このままでは既成の仏教教団そのものが立ち行かなくなる勢いだったのだ。こうして念仏停止の断が下された。
また、法然にとって運の悪いことに住蓮、安楽という法然の弟子によって、後鳥羽上皇の女官が勝手に出家するという事件(?)が起こった。この事件は上皇の逆鱗に触れ、住蓮、安楽らは死罪、そして師の法然も僧侶の身分を取り上げられ、「藤井元彦」という俗名で四国へ流罪と決まってしまった。1207年(建永2年)、法然75歳のときのことだ。高齢の法然にとって辛い処罰だったはずだが、彼は「長年、地方に行って念仏の教えを説くことが願いだった。今回、それが果たせるのも朝廷のお陰」と言い残し、四国へと旅立った。
流罪先の讃岐国滞在は10カ月と短いものだったが、九条家領地の塩飽諸島本島や香川県・満濃町(?)(現在の西念寺)を拠点に、75歳の高齢にもかかわらず、讃岐中に布教足跡を残し、空海の建てた由緒ある善通寺にも参詣している。
法然の門下に証空・親鸞・蓮生・弁長・源智・幸西・信空・隆寛・湛空・長西・道弁らがいる。また、俗人の帰依者・庇護者としては九条兼実・宇都宮頼綱らが有名だ。
(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史」、梅原猛「百人一語」、司馬遼太郎「この国のかたち 三」