もう10年以上も前のことだが、NHKが歴史のテレビ番組に「建武新政敗れ 悪党楠木正成自刃す」というタイトルをつけ、正成を祀っている湊川神社(神戸市)が抗議するという事件があった。確かにタイトルに「悪党」とつけられては、正成が「悪人」だったという印象を受ける。これに対してNHKは「悪党は悪い連中という意味ではなく、歴史上の新興勢力を表す語」と説明した。実際にこれは正しいのだが、歴史上の「悪党」という言葉は、現代の国民的常識となっていないから、早合点すると、楠木正成は悪人だったのだと思い込む人がいないとも限らない。
楠木正成は謎の人物だ。楠木氏は伊予国の伊予橘氏(越智氏)の橘遠保(たちばなのとうやす)の末裔という。しかし、正成以前の系図は諸家で一致せず、後世の創作とみられる。河内には楠木姓の由来となるような地名はない。つまり、先祖が分からず、家系が分からず、身分も定かでない。本拠地がどこだったのかについても諸説あり、確かなことは分からない。
にもかかわらず、戦前の日本人にとって楠木正成ほど有名な歴史上の人物はいなかった。日本一の大忠臣「大楠公」として、大日本帝国臣民が模範としなければならない第一の人物として、歴史教育の中で徹底的に叩き込まれたからだ。そのため、戦後は神功皇后などとともに歴史の教科書から真っ先に抹殺されることになった。
伝えられる正成の出生地は河内国石川郡赤阪村(現在の大阪府河内郡千早赤阪村)。生年に関しての明確な史料は存在せず、正成の前半生はほとんど不明だ。様々な歴史家による研究にもかかわらず、正成の確かな実像を捉えられるのは、元弘元年の挙兵から建武3年の湊川での自刃までのわずか6年に過ぎない。
正成は1331年(元弘元年)、臨川寺領和若松荘「悪党楠木兵衛尉」として史料に名を残しており、鎌倉幕府の御家人帳にない河内を中心に付近一帯の水銀などの流通ルートで活動する「悪党」と呼ばれる豪族だったと考えられている。このとき、すでに官職を帯びていることから、これ以前に朝廷に仕え、後醍醐天皇もしくはその周囲の人物たちと接触を持っていたと思われる。この年に後醍醐天皇の挙兵を聞くと、下赤坂城で挙兵し、湯浅定仏と戦う(赤坂城の戦い)。
後醍醐天皇と正成を結びつけたのは伊賀兼光、あるいは真言密教の僧、文観と思われる。正成は後醍醐天皇が隠岐に流罪となっている間にも、大和国吉野などで戦った護良親王とともに、河内国の上赤坂城や金剛山中腹に築いた山城、千早城に籠城してゲリラ戦法や糞尿攻撃などを駆使して幕府の大軍を相手に奮戦している。正成は少数で大軍を破るという、天才的な策略家だった。1333年(元弘3年)、正成らの活躍に触発されて各地に倒幕の機運が広がり、足利尊氏や新田義貞、赤松円心らが挙兵して鎌倉幕府は滅びた(元弘の乱)。
後醍醐天皇の建武新政が始まると、正成は記録所寄人、雑訴決断所奉行人、河内・和泉の守護となった。正成は後醍醐天皇の絶大な信任を受け、足利尊氏が離反して後、実質上、後醍醐天皇の作戦参謀として新政の軍事主体の主力の一方になり、最後まで勤皇を貫いたことは特筆される。ただ、中国の諸葛孔明と並び称される鬼謀の数々を発揮しながら、正成には最後まで実力に応じた地位が与えられなかった。このことが、実態としては「補佐役」でありながら、戦局を左右する様々な進言が、簡単に退けられ、最終的に敗死の悲劇につながった。
1336年(建武3年)、足利方が九州で軍勢を整えて再び京都へ迫ると、正成は後醍醐天皇に、新田義貞を切り捨てて尊氏と和睦するよう進言するが受け容れられず、次善の策として、いったん天皇の京都からの撤退を進言するが、これも却下される。ここで後醍醐天皇を見限ってもなんら批判、非難されることはないはずだ。
ところが、正成はそれでも陣営にとどまったのだ。そんな絶望的な状況下で、しかも意に染まぬ新田義貞の麾下での出陣を命じられ、湊川の戦い(兵庫県神戸市)に臨んだのだ。朝廷側の主力となるべきは新田軍だった。だが、新田軍は戦いが始まってすぐに総崩れとなり、戦場に残される形となった正成のわずか700余騎が足利直義軍と戦い敗れて、正成は弟の楠木正季とともに自決したとされている。
南朝寄りの「太平記」では正成の事績は強調して書かれているが、足利氏寄りの史書「梅松論」でさえも正成に同情的な書き方をされている。この理由は、戦死した正成の首(頭部)を尊氏が「むなしくなっても家族はさぞや会いたかろう」と丁寧に遺族へ返還しているなど、尊氏自身が清廉な正成に一目置いていたためとみられる。
(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史」、加来耕三「日本補佐役列伝」、梅原猛「百人一語」、百瀬明治「『軍師』の研究」、永井路子「歴史の主役たち 変革期の人間像」、永井路子「続 悪霊列伝」、小和田哲男「日本の歴史がわかる本」