桂昌院(徳川五代将軍綱吉の母)・・・悪法“生類憐みの令”生みの親

 桂昌院は徳川三代将軍家光の側室で、後に五代将軍綱吉の生母となった。八百屋の娘からここまで登り詰めた、いわば日本版シンデレラだが、その一方で悪法“生類憐みの令”発令のきっかけをつくった悪女でもある。

 彼女の生まれは京都・堀川通西藪屋町の八百屋仁左衛門の娘で、名前はお玉。16歳で家光の側室、お万の方の腰元として江戸城に入るのだが、京都の八百屋の娘が江戸城の大奥に入るようになるのは少し込み入った事情がある。それは、京都の公卿のお嬢さんが伊勢・慶光院という門跡寺の尼になり、寛永16年(1639)3月、そのお礼のために家光のところに出向いた。

江戸城で家光に拝謁したところ、家光はそのお嬢さんを一目見て「尼にしておくのはもったいない」と不心得を起こし、そのまま江戸に留め還俗させて、側室・お万の方が誕生することになる。そして、そのお万の方の腰元としてお玉が行くことになったのだ。

 腰元お玉の、いきいきした下町娘ふうな美しさが家光の目にとまったというわけだ。身分制度のやかましかった徳川封建体制下ではラッキーなことだが、そのうえ彼女は妊娠し、しかも男の子が生まれて、これが五代将軍綱吉になった。生まれたのが女だったら、桂昌院として歴史に名を残すようなことはなかったろう。そういう意味では彼女には幸運が続く。

というのは、家光には側室は彼女の他に4人いて、別の側室2人に長男家綱、二男網重と男の子が2人いたので、本来なら彼女の子は将軍にはなれないはずだった。ところが、ツキのあるときはどこまでもうまくいくもので、四代を継いだ家網は子供なしで早死にし、続いてその弟、網重も亡くなる幸運。兄2人が死んで、上州・館林の藩主だった綱吉に将軍の座が回ってきたというわけ。その頃はすでに家光に死別して、お玉は未亡人になっており、当時の慣例として剃髪し、桂昌院と呼ばれていたが、自分の意思や策謀なしにこれほどトントン拍子に出世した人はいない。稀有なケースといっていい。

 綱吉は学問好きの将軍として知られているが、これは桂昌院・お玉が教育ママで「勉強しなさい」といつも尻を叩いていたからだ。夫の家光が戦乱の余燼がまだおさまらない時代に成長し、学問をする時間がなかったので、子供たちには学問させたいと考えていたのだ。お玉はその言葉を守って綱吉にハッパをかけたので、綱吉は徳川歴代将軍の中でも特筆されるほどの好学将軍になった。四書五経、大学、中庸など彼の知識レベルは、学者はだしだったという。

 美貌とともに、伏魔殿のような大奥でうまく泳いでいく処世術を身につけていた桂昌院は、82歳まで生き幸福を享受し続けたが、その生涯の最大の汚点は悪法“生類憐みの令”発令のきっかけをつくったことだ。信仰心が篤かった桂昌院はそれが災いし、結果的に大奥に悪僧、隆光を引き入れ、その進言で“生類憐みの令”という未曾有の悪法を綱吉に進言。その結果、犬一匹殺しても死罪、魚、えび、しじみに至るまで食べるのを禁じるところまでエスカレートし、庶民の苦痛、不便、迷惑は大変なものだった。この悪法は1685年から綱吉が死ぬ1709年まで続く。この24年間は庶民にとって耐え難い時期だったといえる。

 通常、権力者の世界では“父母に忠孝”というのは建て前で、“天子に父母なし”といって、天子になったら父母のいうことを聞かなくてもいいという考えもあった。ところが、綱吉は儒教の忠孝の教えを守って、母・桂昌院のお膳の上げ下げまでしたという。それだけに、綱吉が“犬公方”と呼ばれ、後世の批判を浴びているのは、母・桂昌院のせいといえる。
(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、永井路子対談集「五代将軍綱吉の母・桂昌院」(永井路子vs杉本苑子)

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