松本良順は幕府の医学所頭取を務めた後、戊辰戦争で幕軍に参加、会津城内の野戦病院を開設し戦傷病者の治療にあたった。そのため戦後は明治政府に捕らえられ禁固の身となったが、数年後、懇請されて兵部省に出仕し、日本の陸軍軍医制度を確立した人物だ。松本良順の生没年は1832(天保3)~1907年(明治40年)。
松本良順は下総国(千葉県)佐倉藩医佐藤泰然(順天堂大学の祖)の次男として、江戸麻布の我書坊谷で生まれた。幼名は順之助、名は良順、のち順に改め、蘭疇(らんちゅう)、楽痴と号した。嘉永3年、幕府医官の松本良甫(りょうほ)の養子となり、改姓した。1871年(明治4年)、従五位に叙せられた後、「松本順」と名乗った。
良順は17歳のとき、父佐藤泰然の卵巣手術に助手として立ち会ったほか、乳がん、脱疽、痔ろうなどの切開手術にも、父泰然の助手として立ち会うという貴重な経験を積んだ。泰然は豪放で生来、進取の気性に富んでいた。早くから西洋医学に深い関心を持ち、長崎に留学して蘭医ニーマンに学び、江戸に戻ってからは薬研堀に医院を開き、多くの弟子の教育にもあたった。他に望むべくもない、そうした環境が良順を、積極的に西洋医学の研鑽に駆り立てたことは間違いない。
26歳の良順は1857年(安政4年)、幕命で長崎に行き、オランダ軍医ポンペの医学伝習生の責任者となって、長崎養生所・医学所の運営に尽力した。従来日本では漢方医が正統で、蘭方医は下位に置かれていたが、将軍お膝元の江戸にも種痘所が開かれるなど、先進的な西洋医学への希求が高まっていたころであり、良順はその先端を行くことができたのだ。
1862年(文久2年)、良順は江戸に帰り、幕府の医学所二代目頭取、緒方洪庵を補佐し、1863年(文久3年)、洪庵没後、良順は三代目頭取となって、ポンペ直伝の近代医学教育法を導入した。1864年(元治元年)、法眼に叙せられ、将軍侍医なども務め、十四代将軍・徳川家茂の治療にあたり、大坂城で家茂の最期を看取っている。また良順は、会津藩の下、幕末、京都の治安維持にあたった西本願寺の新選組屯所に招かれ、隊士の回診を行っているほか、局長近藤勇、副長土方歳三、沖田総司らとも個人的な親交があったようだ。
良順は戊辰戦争では幕軍に参加、奥羽列藩同盟軍の軍医となり、会津城内に野戦病院を開設。戦傷病者の治療にあたった。そのため、戦後は明治政府に捕らえられ、一時投獄され、禁固の身となった。だが1869年(明治2年)釈放され、早稲田に私立病院・蘭疇医院を建て、教育と診療にあたった。こうして野にあること数年、良順は懇請されて兵部省に出仕し、1871年(明治4年)、「軍医寮」を創設。陸海軍が分かれた後は、陸軍軍医部の編成に尽力し、山縣有朋などの推薦を受け1873年、陸軍軍医総監となり、日本陸軍軍医制度を確立した。
軍医学は公衆衛生学的な考えを基盤にしていたので、良順は牛乳の飲用、海水浴の奨励など民間への指導を行った。良順によって開かれた日本最初の海水浴場、大磯照ヶ崎に彼の功績を顕彰する記念碑が建てられている。
1891年(明治23年)、良順は貴族院議員に選出され、いわゆる勅撰議員を務めた。著作に「蘭疇」「通俗医療便法」などがある。
(参考資料)司馬遼太郎「胡蝶の夢」、吉村昭「日本医家伝」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」