明正天皇 幕府の圧力で退位した父帝の後、7歳で即位した859年ぶりの女帝
第百九代・明正(めいしょう)天皇は、徳川二代将軍秀忠の娘、東福門院和子(まさこ)を母に持つ、第百八代後水尾(ごみずのお)天皇の第二皇女で、奈良時代の第四十八代称徳(しょうとく)天皇以来、実に859年ぶりの女帝として即位した。この徳川氏を外戚とする唯一の天皇の誕生を機に、『禁中並公家諸法度』に基づく江戸幕府の朝廷に対する介入が本格化したのだ。ただ、明正天皇の治世中は、将軍家の度重なる強い圧力を嫌って突然退位した前天皇、父の後水尾による院政が敷かれ、明正天皇が朝廷において実権を持つことは何ひとつなかったという。彼女自身、幕府と朝廷=母の実家と父帝の板ばさみとなり、ある意味で悲劇のヒロインだったともいえる。
明正天皇の幼名は女一宮(おんないちのみや)、諱(いみな)は興子(おきこ)。明正天皇の在位は1629(寛永6)~1643年(寛永20年)、生没年は1624(元和9)~1696年(元禄9年)。奈良時代以来の女帝、明正天皇の誕生は、今日、後水尾天皇による「俄の御譲位」事件として記録されている。父の後水尾天皇から突然の内親王宣下と譲位を受け、興子内親王として践祚(せんそ)。わずか数え年7歳のときのことだ。
幕府による後水尾天皇への圧力として象徴的だったのが、無位無官の女性=春日局の参内だった。春日局は本名・山崎福、明智光秀の重臣、斎藤利三の娘、応募して徳川三代将軍家光の乳母となった気丈な女性だ。お福は将軍の代参として伊勢両宮に参詣の途次、京都に立ち寄り、参内したいと申し出た。しかし、無位無官の女性が参内するなどいうのは、前代未聞のことだ。そのため、公卿の誰かの子として、禁裏に招かれる体裁をとるということになった。だが、お福は老女なので、養家となるべき相応の公卿が見当たらない。そこで、やむなくとられた手段は、伝奏・三条西実条の姉妹分という扱いだった。ちなみに、春日局とは室町時代の将軍家の乳人(めのと)の称で、このときお福はそれに倣って、「春日局」の称号を許されたのだ。
こうした体裁を整えたうえでお福は予定通り参内、禁中御学問所で天皇と対面し、西の階(きざはし)近くに召されて勾当内侍(こうとうのないし、長橋局)の酌で天盃(てんぱい)を受けた。『大内日記』によると、このときお福は、後水尾天皇の中宮和子(明正天皇の母)のいる中宮御所で、京都所司代・板倉重宗と落ち合い、そこから伝奏・実条の案内で参内したらしい。いずれにしても、お福は上首尾に天盃を賜り、面目を施したのだ。しかし、地下(じげ、無位無官)の女性が幕府の威光を背に強引に参内したというので、公卿らの憤懣はうっ積した。
後水尾天皇の退位のきっかけとなった事件として指摘されるのが紫衣(しえ)事件だ。これは幕府の朝廷に対する圧迫と統制を示す朝廷・幕府間の対立事件で、江戸時代初期の両者の最大の不和確執だ。事の始まりはこうだ。幕府は1613年(慶長18年)、「勅許紫衣並 山城大徳寺 妙心寺等諸寺入院の法度」、1615年(元和元年)に「禁中並公家諸法度」を定めて、朝廷がみだりに紫衣や上人号を授けることを禁じた。しかし、後水尾天皇は従来の慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えた。
これを知った徳川三代将軍家光は1627年(寛永4年)、事前に勅許の相談がなかったことを法度違反とみなして、多くの勅許状の無効を宣言し、京都所司代・板倉重宗に法度違反の紫衣を取り上げるよう命じたのだ。この事件をきっかけに、こうした介入に承服できない後水尾天皇は、退位の決意を固めたといわれる。
幕府には無断で、突然ではあったが、譲位を迫る将軍家の強引な仕儀に屈する形で、後水尾天皇は後継に幼女を据え、退位した。しかし、このことは後を託された明正天皇にとって、きわめて悲しい運命を科されたことをも意味した。それは、古代より天皇となった女性は即位後、終生独身を通さなければならない-という不文律があったからだ。
この不文律は元来、皇位継承の際の混乱を避けることが主要な意図だった。だが、後水尾天皇はこの不文律を利用し、徳川将軍家に対して反撃に出たのだ。皇室から徳川家の血を絶やし、後世までその累が及ばぬようにするという意図をもって、娘に白羽の矢を立て、明正天皇を即位させたとの見方があるのだ。後水尾天皇は将軍家の、天皇家に対する無礼な振る舞いに立腹、一時的な感情に支配されて退位したように見せながら、実際にはしたたかに計算したうえで明正天皇を誕生させたともいえるのだ。幕府の意向を十分汲みながら、皇室から徳川の血を排除するという、一石二鳥の妙手だったわけだ。事実、後水尾天皇は明正天皇への譲位後も朝廷内においては院政を敷き、引き続き実権は握っていたのだから。院政は本来、朝廷の法体系の枠外のしくみで、「禁中並公家諸法度」ではそれを統制できなかったのだ。
明正天皇は1643年、21歳で異母弟の後光明(ごこうみょう)天皇に譲位。以後54年間、女性の上皇として宮中にあった。崩御後、古代の女帝、第四十三代・元明(げんめい)、第四十四代・元正(げんしょう)両天皇の一字ずつを取って明正院と号した。
(参考資料)今谷 明「武家と天皇- 王権をめぐる相剋」、笠原英彦「歴
代天皇総覧」、北山茂夫「女帝」