徳川慶喜といえば幕末、英明で知られた徳川十五代将軍だ。それだけに、このシリーズに加えることに違和感を持たれる人がいるかも知れない。しかし、最高司令官としての慶喜がきちんと対応していれば、幕府軍の官軍との戦いは、まだまだ互角以上の勝負が可能であった。にもかかわらず、彼は鳥羽・伏見の戦いに敗れると、敗兵を置き去りにして、こっそり大坂城を抜け出して海路、真っ先に江戸に戻ってしまった。
これはトップとして恥ずべき最大の汚点だ。「敵前逃亡」だ。慶喜は膨大な数の幕臣を、ある意味で見殺しにしてしまったのだ。組織のトップとしては、完全に“失格者”だったといわざるを得ない。トップにはトップの者として、その立場に合った、幕臣が納得する、ふさわしい引き際があったはずだ。
徳川慶喜は、確かに徳川の歴代将軍の中では知性も教養も備え、幕政改革にも取り組む、最後まで可能性を探し続けた「徳川日本株式会社」(幕府)の“経営者”だった。慶喜がやろうとしたのは、単なる財政再建ではなく、“勢威”の回復にあった。つまり、将軍を核にした徳川幕府の勢威を昔日に戻そうとしたのだ。
そのため、彼は軍制、財政、組織の三改革を実施した。組織改革では老中以下の合議制を改め、「省」制を導入した。内務、外務、陸軍、海軍、財、農、商、土木、司法、教育、宗教などに分けた。また、横須賀造船所を建設した。
そして、西南雄藩を中心とする反対勢力の伸長に対抗、彼は突然、ウルトラCの逆転戦法に出た。「大政奉還」だ。諸藩の有力者に対し、“ポスト徳川”の運営がお前たちにできるのか?やれるならやってみろ-との気持ちが強かったと思われる。つまり、彼は本気でトップの座を降りる気はなかったのだ。彼は“時代の空気”を読みそこなった。彼の目算では、討幕勢力は四百万石という徳川クラスの“大企業”経営の経験がない連中だけに、すぐに音を上げて投げ出してしまうだろうと、たかをくくっていたのだ。
ところが、西南雄藩の連中は音を上げるどころか、十分やる気で、天皇を担ぎ出し「今後、日本の経営は天皇が行う」と宣言した。「王政復古」だ。この奇襲に慶喜も完全に足をすくわれた格好だ。そして、鳥羽・伏見の戦いでの敗戦で彼は、取り返しのつかない、決定的なミスを犯してしまった。側近のみを伴っての敵前逃亡だ。哀れなのは置き去りにされた、膨大な数の幕臣たちだ。
歴史に「たら」「れば」は無意味ということを承知で、敢えて大坂城で一戦していれば、と考えてしまう。負けてもいい。負けたら江戸で一戦すべきだったのではないかと思う。大坂城では軍備も戦力もあった。江戸でも戦う人々はたくさんいたのだ。そうすれば佐幕派の諸藩や旗本ら幕府軍も結末はどうあれ納得できただろう。江戸の庶民もそうだ。
しかし、慶喜は江戸に戻って後、ひたすら恭順の姿勢を取る。京都や大坂にいて幕政改革の陣頭指揮を執った、あのエネルギッシュでダイナミックなトップの面影は全くない。この落差がどうにも理解しにくいところだ。“朝敵”の汚名は何としても返上したい-の思いは確かにあったろうが、もうすこし、常識的に対応すれば、こんな追い込まれ方はしなかったのではないか。
徳川慶喜の生没年は1837(天保8)~1913年(大正2年)。江戸・小石川の水戸藩邸で第九代藩主・水戸斉昭の七男として生まれた。幼名は七郎麻呂。斉昭の命で徹底した英才教育を受け、水戸弘道館で学んだ後、1847年(弘化4年)一橋家を継いで慶喜と改名した。内大臣。従一位勲一等公爵。
(参考資料)司馬遼太郎「最後の将軍」、司馬遼太郎「街道をゆく33」、童門冬二「江戸管理社会 反骨者列伝」
奈良本辰也「歴史に学ぶ」、杉本苑子「残照」