徳川第十一代将軍家斉は、50年もの長期にわたって将軍職にあった異例の将軍で、生涯に特定されるだけで17人の妻妾を持ち、男子26人、女子27人の子をもうけた歴代将軍の中では、いや歴史上日本人の“子持ち”No.1の記録男だ。複数の女性を妻に迎えることは、例えば平安時代でも宮廷の高位を占める高級貴族の間では珍しいことではなかった。しかし、これだけ多くの妻となると、稀有なことと言わざるを得ない。また相当傑出した、強靭な体力がなければできることではない。こうしてもうけられた、これら子供たちの膨大な養育費が、逼迫していた幕府の財政をさらに圧迫することになり、やがて幕府財政は破綻へ向かうことになった。“お騒がせ”いや“オットセイ”将軍、家斉の生没年は1773(安永2)~1841年(天保12年)。
徳川家斉は、第二代一橋家当主・治済(はるさだ)の子として生まれた。幼名は豊千代、後に家斉。だが、第十代将軍家治の世嗣・家基が急死したため、父と老中首座にあった田沼意次の裏工作、そして家治にほかに男子がいなかったこともあって、幸運にも家治の養子になり、江戸城西の丸に入って家斉と称した。そして、家治が1786年(天明6年)、50歳で急死したため、1787年(天明7年)、家斉は15歳で第十一代将軍に就いた。以後、50年もの長きにわたって将軍の座にあって、65歳で将軍職を家慶(第十二代)に譲ってからも、「大御所」として幕政の実権は握り続けた。
官位も太政大臣に上った。生前に太政大臣に上ったのは、徳川家の将軍では初代家康、二代秀忠以来のことだ。位人臣を極めたというべきか。体も丈夫だった。冬でも小袖二枚と肌着のほかは着たことがなく、こたつにもあたらず、手あぶりだけで済ませた。現代のように冷暖房完備とはいかない江戸城の中で、この薄着でいられたのは、よほど体の芯が丈夫だったのだろう。
家斉は将軍職に就いた年に第一子、淑姫(ひでひめ)をもうけ、54歳のときの最後の子、泰姫(やすひめ)まで、約40年間に53人の子供をもうけたのだ。これらの子の縁組先は6人が御三家、4人が御三卿、7人が家門(越前家諸家・会津松平家などの徳川家一門)など、計19人までが徳川家の近い親類に縁付いている。それらを除いた7人が外様大名に縁付いているが、2人が養子、5人が娘(姫)だ。これら家斉の子供のため、徳川家一門は御三家筆頭の尾張徳川家を始めとして、家斉の血縁の者が跡を継ぐケースが頻出し、幕末の大名家当主は多くが家斉の血縁の者になった。
家斉には17人の特定される妻妾以外にも妾がいたとも伝えられ、一説では40人ともいわれる。とはいえ、これらの側室が常時、彼のハーレムに侍っていたわけではない。周知の通り、徳川時代には大奥制度が厳然としてあり、加えてこれらの側室たちも30歳になると、「お褥(しとね)お断り」といって、その座を降りるしきたりになっていた。
それにしても、この側室の多さはマイナスでしかなかった。大奥の費用はかさみ幕府財政は極度に悪化したのだ。
(参考資料)山本博文「徳川将軍家の結婚」、永井路子「続 悪霊列伝」、「にっぽん亭主五十人史」、南条範夫「夢幻の如く」