後白河天皇の在位はわずか3年だったが、上皇として院政を始め、一時中断はあるものの、天皇五代30余年にわたり院政を敷いた。その間、隆盛を誇った平氏一門と対立。「鹿ケ谷の陰謀」事件や、平氏政権転覆を企てるなど平氏一門を翻弄し、比類なき政略家、陰謀を好む専制君主だったという見方がある。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝から「日本国第一の大天狗」と評されたほど、権謀術数に明け暮れる一生を送った人物だ。半面、政治的洞察力に優れ、決断力に富んだ偉大な政治家だったのではないかとの見方もある。後白河法皇は果たして本当に“悪役”だったのか否か?見方の分かれる人物に違いない。
武士の台頭によって、公家政権が衰退していくという大きな流れの中で、後白河法皇のエネルギーは常に公家政権の存続のために費やされた。“武力”を表看板とする武士たちとの虚々実々の駆け引きには、確かに極めて興味深いものがある。
後白河法皇は第七十七代天皇。鳥羽天皇の第四皇子、母は待賢門院璋子。在位はわずか3年だったが、保元の乱で崇徳上皇方を破り1158年(保元3年)、皇子の二条天皇に譲位、上皇として院政を開始した。そして、二条、六条、高倉、安徳、後鳥羽の五代にわたって院政を行い、30年以上にわたり君臨した。後白河は父の鳥羽院から「その器に非ず」との烙印を押され、忠通の子で博覧強記で知られる九条兼実には「不徳の君」などと蔑まれたが、新たに登場した武家の世にその辣腕ぶりを遺憾なく発揮した。
後白河が院政政権を確立するにあたって協力関係にあった平家とは、平清盛の妾の妹にあたる小弁の君(建春門院)を寵愛し、その所生の皇子を皇位に就けて高倉天皇としたあたりまでだった。この後は清盛と激しく対立し、その流れの中で1177年(治承元年)の鹿ケ谷事件の発覚となった。1179年(治承3年)には亡くなった平重盛の遺領をめぐって清盛と衝突し、鳥羽殿に幽閉されてしまった。しかし、1180年(治承4年)に院の第三皇子・以仁王(もちひとおう)が源頼政に擁立され、平家打倒の兵を挙げ、源頼朝・義仲らの源氏勢力が次々と蜂起。また高倉院や清盛が相次いで死去する幸運(?)に恵まれ、後白河は再び政界に復帰した。
源(木曽)義仲と対立した際は、法住寺の御所に兵を集めて戦ったが、敗れて五条内裏に幽閉された。さらに源頼朝と義経との離間を計るなど、権謀術数に磨きがかかってきた。義経には頼朝追討の宣旨を与え、義経が敗れるや、頼朝に義経追捕の宣旨・院宣を与えるという具合だ。比類なき策謀家の面目躍如といったところだが、これによって公家政権が途絶えなかったことを思えば、公家勢力の顕示に貢献するとともに、単なる権力志向や私利私欲ではなかったということだろう。
1169年(嘉応元年)、後白河は43歳で出家し以後、法皇と呼ばれるようになったが、神仏への信仰は極めて篤く、熊野への参詣は34回にも及んだ。また、今様を愛好し、自らその歌謡の選集「梁塵秘抄」を編んだ。その口伝集によると、世間に評判の能者は、その身分に関わらず院の御所に招き、その一人の遊女、乙前とは師弟の契りを結んだ。後白河法皇は、陰謀を好む比類なき政略家だったが、半面、信仰心の篤い一人の文化人でもあった。
(参考資料)井上靖「後白河院」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、村松友視「悪役のふるさと」、永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「絵巻」