広瀬宰平は住友400年余の歴史の中で、中興の元勲と称えられている人物で、明治の住友の初代理事となった。また、安治川下流の改修に尽力、関西財界の基礎確立に貢献した五大友厚らと大阪商法会議所、大阪株式取引所、大阪商船会社を創設した。
宰平は1828年(文政11年)、近江国(現在の滋賀県)野洲郡八夫(やぶ)村(現在の中主町八夫)に住む北脇理三郎の次男として生まれた。幼名は駒之助。北脇家は元武士の出身で土地の名家だった。宰平の姉の田鶴子は、武佐村の代官伊庭正人に嫁いで伊庭貞剛を産んでいる。この貞剛が後に叔父宰平に勧められて当時泉屋と称していた住友へ入って二代目総理事となった。宰平自身、父の弟、叔父治右衛門が住友にいたため、住友家に勤めることになったのだった。
宰平は1836年(天保7年)、9歳のとき、叔父に伴われて伊予国(愛媛県)に赴き、11歳のとき別子銅山の勘場(事務所)に奉公することになった。そのときの泉屋の家長(当主)は九代友聞(ともひろ)だった。以来、彼は友視、友訓、友親、友忠、登久、友純と、57年間に七代の家長に仕えることになる。
当時の住友の家業は、別子銅山の経営と製銅業、現代風に表現すれば精錬製銅業を営んでいた。別子銅山は1690年(元禄3年)に発見され、初めは4000尺の山頂に、純銅の塊がゴロゴロしているのを拾ってくるだけでよかったが、以来150年ほどの間に出銅率がすっかり落ち、どんどん坑道が深くなって、坑内に水がたまり、この水抜きに苦しんで、さらに別の坑道を掘るというように、経営が苦しくなってきた。
そして別子銅山は、第十代友視の頃は毎年1万両という巨額の赤字を生み出す厄介ものになっていた。そのうえ飢饉が続き世の中が不景気で、鉱夫の給金も払えなくなってきた。そんな頃、宰平がこの別子銅山へ奉公したのだ。
別子銅山の勘場には4000人の男女が暮らしている。支配人以下住友系から派遣されてきた店員が詰め、給料の計算や出銅量の記録や食料の配給、資材の手当てその他の事務一切を処理している。11歳の駒之助は支配人の甥なので、古株社員や悪童たちも表面は遠慮しているが、裏ではさんざんしごきや意地悪をされた。その厳しさに耐えて、彼はよく働いた。
26歳になったとき、当主友視のお声がかりで、大坂から嫁をもらうことになった。さらに結婚後は、家長の意向で江戸店の支配人、広瀬義右衛門の養子となって広瀬家を継ぐことになっていた。最初の妻とは死別。1860年(万延元年)、義右衛門は町子と再婚した。
米騒動が起こるなど幕末の動乱期、別子銅山の舵取りを任されたのが広瀬宰平だ。38歳と若い総支配人だった。折から二度目の妻とも死別するという家庭的な不幸を忘れるためにも広瀬は献身的な働きで別子銅山の危機に立ち向かった。1868年(明治元年)、鳥羽・伏見の戦いに勝った薩長軍が大坂・住友本店の吹所(精錬所)に封印、銅蔵の製品を没収してしまった。また、別子銅山も川田小一郎(後の日銀総裁)を隊長とする一隊が接収にきた。
こうした窮状に住友本店の番頭たちが会議し、別子銅山の売却を当主に進言。当主もやむなくこれを受け入れようとしたとき、広瀬が熱弁を振るう。そして「住友が今日あるのは別子銅山のお陰、別子は当家の大黒柱です…」などと説き、当主を翻意させたのだ。
その後、広瀬はフランスから技師を招くなど改善と近代化を進めて別子銅山を蘇らせ、五代友厚とともに大阪財界の発展に貢献した。
(参考資料)佐藤雅美「幕末『住友』参謀 広瀬宰平の経営戦略」、邦光史郎「豪商物語」