平重衡は1181年(治承4年)、平氏の総帥・平清盛の命により東大寺、興福寺の堂塔伽藍を焼き払った。このとき、東大寺の大仏も焼け落ち、両寺の堂塔伽藍は一宇残さず焼き尽くし、多数の僧侶が焼死した。この「南都焼き討ち」は平氏の悪行の最たるものと非難され、実行した重衡は南都の衆徒から“憎悪”の眼で見られ、ひどく憎まれた。滅びてはならないもの、また滅びるはずのないものと信じ切ってきた精神的支柱が、たった一晩の業火であっけなく無に還ってしまった驚きは、現代人の理解の範囲を、遥かに超えたものであったに違いない。
戦(いくさ)の中で寺が主戦場となった場合は別として、通常、戦のため寺が火災に遭うのは多くは類焼だ。ところが、この「南都焼き討ち」は寺社勢力に属する大衆(だいしゅ=僧兵)の討伐を目的としたもので、「治承・寿永の乱」と呼ばれる一連の戦役の一つだ。
では、なぜ清盛は重衡に南都の代表的な寺の焼き討ちを命じたのか。それは、聖武天皇の発願によって建立され国家鎮護の象徴的存在として、歴代天皇の崇敬を受けてきた東大寺と、藤原氏の氏寺だった興福寺が、それぞれ皇室と摂関家の権威を背景に、元来、自衛を目的として結成していた大衆と呼ばれる武装組織=僧兵の兵力を恃(たの)みとして、平氏政権に反抗し続けていたからだ。清盛としては寺社の格の区別なく、平氏の“威光”を天下に示す必要があったのだ。
とはいえ、当時の日本人は、僧兵どもの横暴や我欲を指弾しながらも、この鎮護国家の二大道場、東大寺・興福寺に伝統的な畏敬と信頼を保ち続けていた。それが消えた、という事実は彼らの胸を不安と絶望に塗りつぶしてしまった。この事件によって人々が強いられたのは、遂に動かし難い「末法の世」への確認だった。それは“恐怖”そのものだった。
平重衡は、そんな大それた悪行を実行した張本人にしては、年もまだ24歳にしかなっていない貴公子だった。平清盛の四男で、6歳で従五位下・尾張守に任じ、左馬頭に叙せられ、やがて正四位に進み左近衛権中将、続いて蔵人頭に補された。同じ年の5月、源三位頼政が以仁王を奉じ、全国の源氏に先駆けて打倒平家の兵を挙げたとき、重衡は甥の維盛とともに2万の兵力を率いて頼政を宇治に破ったが、合戦の経験といえばこれが生まれて初めての、いわば典型的な“公達”武者なのだ。
今度はその重衡に4万の大軍を与えて、南都攻略に向かわせた清盛の狙いは何だったのか。実は当時、源三位頼政の決起以降、源義仲の木曽での挙兵、さらには源氏との富士川での戦いに平家は敗れ、清盛は都を福原から京都に戻さざるを得なくなり、平家一門にとってはまさに四面楚歌の状態にあったのだ。そこで、そんな局面打開策の一環として、南都攻略が企図されたわけだ。焼き討ちの挙に出るまで、清盛もぎりぎりまで衝突を避けようと腐心し、調停の使者をさしたてている。しかし、使者は髷のもとどりを切られたり、鎮撫の兵も斬られ、奈良僧兵たちがあざけり、挑発的行為に出るに及んで、清盛も怒り、決断したのだ。
そんな清盛の意を受けて、「僧徒たちは悪鬼、寺は悪鬼のこもる城だ。焼き滅ぼして何が悪かろう」。恐らく重衡はそんな思いだったに違いない。しかし、堂塔伽藍が一斉に華麗な炎をあげ始め、さらに大仏殿までが火焔に包まれ始めたとき、彼も青くなり、仏法に仇する“怨敵”の烙印を額に押されて、平然としていられるほど太い神経は持ち合わせていなかったろう。若い重衡には、この体験は残酷に過ぎたといえる。
この事件を契機に、好意的だった寺社勢力さえが離反し、平家の孤立化は決定的となった。そして、源氏との間で「一の谷の戦い」「屋島の戦い」「壇の浦の戦い」と坂を転げ落ちるように平家は負け続け、滅亡の道をたどった。
(参考資料)杉本苑子「決断のとき 歴史にみる男の岐路」