岩瀬忠震 諸外国との条約交渉を担当した開明派官僚だが、一橋派支持し挫折
岩瀬忠震(いわせただなり)は、江戸時代後期の幕臣で、開明派の官僚の第一人者と目された人物だ。旗本の三男に生まれたこともあり、生涯部屋住みの身で、一時は大名格に昇ったこともあった。だが、十三代将軍家定の後継争いで、敗れた一橋派を支持していたため大老・井伊直弼の逆鱗に触れ、左遷され、出世の道を断たれ、さらに蟄居を命じられた。岩瀬忠震は、旗本の設楽貞丈(しだらさだとも)の三男として生まれた。名は修理(しゅり)、通称は篤三郎。字は百里。母は、大学頭・林羅山を祖とする名門、林述斎の娘、純。従兄弟に堀利煕がいる。後に岩瀬忠正の養子となった。岩瀬忠震の生没年は1818(文政元)~1861年(文久元年)。
岩瀬忠震は幕府の学問所、昌平こうに入門。後に徽典館の学頭として甲府に赴いた。任期を終え、江戸に戻り昌平こうの教授となった。やがて、黒船の来航(1853年)により、日本は幕末という混乱の時代を迎えた。そうした時代状況の中、幕閣で岩瀬の優れた才覚を見い出したのが、時の老中首座・阿部正弘だった。阿部によって、岩瀬は歴史の表舞台に駆け上った。岩瀬は1853年(嘉永6年)、部屋住みの身で徒頭(かちがしら)となり、1855年(安政2年)には従五位下伊賀守に叙任され、部屋住みの身で大名格に昇ることになった。また目付に任じられ、海防掛となり、軍艦操練所や洋学所の開設や軍艦、品川の砲台の築造に尽力した。
岩瀬はその後も外国奉行にまで出世し、ロシアのプチャーチンと交渉して日露和親条約締結に臨んだほか、当時の日本にとって重要だった日米修好通商条約(1858年締結)に下田奉行・井上清直(いのうえきよなお)とともに全権に任じられるなど、次々と重要な条約交渉を担当、開国に積極的な開明的な外交官だった。1858年(安政5年)、条約の勅許奏請のため、岩瀬は勘定奉行・川路聖謨(かわじとしあきら)らとともに、老中堀田正睦の上洛に副役として随行している。しかし、朝廷の理解は得られず、勅許を得ないまま江戸に下った。しかし、当時、諸外国との条約交渉は待ったなしの情勢となっていた。
万難を排して1858年(安政5年)、条約調印にこぎつけたのは、岩瀬をはじめとする優れた幕府外交官の尽力によるものだった。中でも岩瀬はアメリカ、オランダ、ロシア、イギリス、フランスの5カ国すべての条約調印にただ一人参加した。岩瀬が外交官として活躍した時期はわずか5年だが、日本にとって最も大切な5年だった。岩瀬はまた、ホンネとタテマエを使い分けるような人物でもなかった。幕府は条約で決められた神奈川宿に代えて、対岸の横浜村に開港場を設けることとした。だが、岩瀬は条約の文言を重視して、締結した条約の内容通り、神奈川開港を主張したのだ。
岩瀬には出世欲などなかったのかも知れないが、客観的にみると彼の立身とからみ、大きな障害となったのが、将軍後継問題に対する彼の態度だった。この“踏み絵”が岩瀬にとって、大きな読み違いとなり、人生の挫折に追い込まれる事態となった。紀州・慶福(よしとみ、後の十四代将軍家茂)を支持する紀州派と、一橋慶喜を推す一橋派の徳川十三代将軍家定の後継争いで、岩瀬は一橋派の中心人物として行動したのだ。そのため大老・井伊直弼の逆鱗に触れ、作事奉行に左遷された。一橋派を支持した代償はとてつもなく大きかったというわけだ。そして、1859年(安政6年)には免職・蟄居を命じられた。その後は江戸向島で、花鳥風月を友として、詩作に勤しみ、部屋住みのまま44年の生涯を終えたという。
(参考資料)松岡英夫「岩瀬忠震-日本を開国させた外交官」、奈良本辰也「歴史に学ぶ ペリーの来航、橋本左内の統一国家思想」、佐藤雅美「官僚 川路聖謨の生涯」、吉村 昭「落日の宴 勘定奉行 川路聖謨」、津本 陽「開国」、童門冬二「最初の幕臣外交官 川路聖謨」