山本常朝 江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者

山本常朝  江戸時代の代表的な武士道書『葉隠』の口述者
 「武士道と云うは死ぬ事と見付けたり」という有名な一節で知られる『葉隠』。この江戸時代の代表的な武士道書の口述者が山本常朝だ。山本常朝は第二代佐賀藩主鍋島光茂に30数年間にわたって仕えた人物で、『葉隠』は常朝の口述を田代陣基(つらもと)という武士が書き留めたものだ。
『葉隠』は戦時下で取り上げられたことも加わって誤った捉え方をする向きもあるが、他の死を美化したり、自決を推奨する書物とひと括りにすることはできない。『葉隠』の中には、嫌な上司からの酒の誘いを丁寧に断る方法や、部下の失敗をうまくフォローする方法など、現代のビジネス書や礼法マニュアルに近い内容の記述も多い。山本常朝の生没年は1659~1719年。
 山本常朝は佐賀藩士、山本重澄(しげずみ)の二男四女の末子として生まれた。幼名は松亀。通称は不携(ふけい)、名は市十郎、権之允(ごんのじょう)、神右衛門。9歳のとき、二代藩主光茂に御側小僧として仕え、14歳のとき小々姓となった。20歳で元服し、御側役、御書物役手伝となったが、まもなく出仕をとどめられた。その後、禅僧湛然(たんねん)に仏道を、石田一鼎(いってい)に儒学をそれぞれ学び、旭山常朝(きょくざんじょうちょう)の法号を受け、一時は隠遁を考えたこともあった。22歳のとき再び出仕し、御書物役、京都役を命じられた。
 常朝は42歳のとき、光茂の死の直前に、三条西家から、和歌をたしなみ深い光茂の宿望だった「古今伝授」の免許を受けて、その書類を京都より持ち帰り、面目を施した。光茂の死に際し、職を辞し、追腹(殉死)を願ったが、追腹禁止令により果たせず、願い出て出家。佐賀市の北方にある金立山の麓、黒土原(くろつちばる)に草庵を結び、旭山常朝と名乗って隠棲した。
 田代陣基が三代藩主綱茂の祐筆役を免ぜられ、常朝を訪ねたのは常朝51歳のときのことだ。陣基が常朝のもとに通い始め、実に7年の歳月を経て1716年(享保元年)、常朝の口述、陣基の筆録になる『葉隠』11巻が生まれた。その3年後の1719年(享保4年)、山本常朝は死んだ。
 『葉隠』の要点の一部を紹介する。生か死か二つに一つの場所では、計画通りにいくかどうかは分からない。人間誰しも生を望む。生きる方に理屈をつける。このとき、もし当てが外れて生き長らえるならば、その侍は腰抜けだ。その境目が難しい。また当てが外れて死ねば犬死であり、気違い沙汰だ。しかし、これは恥にはならない。これが武士道において最も大切なことだ。毎朝毎夕、心を正しては、死を思い死を決し、いつも死に身になっているときは、武士道と我が身は一つになり、一生失敗を犯すことなく、職務を遂行することができるのだ。
 我々は一つの思想や理想のために死ねるという錯覚にいつも陥りたがる。しかし、『葉隠』が示しているのは、もっと容赦ない死であり、花も実もない無駄な犬死さえも、人間の死としての尊厳を持っているということを主張しているのだ。もし我々が生の尊厳をそれほど重んじるならば、死の尊厳も同様に重んじるべきだ。いかなる死も、それを犬死と呼ぶことはできないのだ。
 常朝はほかに、養子の常俊に与えた『愚見草』『餞別』、鍋島宗茂に献じた『書置』、祖父、父および自身の『年譜』などの著述がある。

(参考資料)奈良本辰也「叛骨の士道」、奈良本辰也「日本の名著 葉隠」、三島由紀夫「葉隠入門」、童門冬二「小説 葉隠」

 

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