山川登美子 『明星』初期の同人で与謝野晶子と才華を競った女流歌人
山川登美子は、与謝野鉄幹が主宰した『明星』の初期の同人で、鳳晶(ほうしょう=後の与謝野晶子)と才華を競った女流歌人だ。師・与謝野鉄幹への思慕を断ち、親の決めた許婚と結婚。そのため、一時、歌から離れたが、不幸にも夫と死別して再び『明星』に復帰した。ところが、不運にも夫の病んだ結核に自らも冒され、30歳の若さで亡くなった。登美子の生没年は1879(明治12)~1909年(明治42年)。
山川登美子は、福井県遠敷(おにゅう)郡竹原村(現在の小浜市)で、父・山川貞蔵の四女として生まれた。生家は小浜藩主・酒井家に側用人御目付役として仕えた、由緒ある家柄だった。父貞蔵は小浜第二十五国立銀行(現在の福井銀行)の頭取を務めた。登美子の本名はとみ。雲城高等小学校在学中は学業成績抜群で、習字・和歌・絵に才能を発揮した。
登美子は1895年(明治28年)、大阪のミッションスクール、梅花女学校に入学。大阪に嫁いでいた長姉いよ宅から通学した。1897年(明治30年)同校を卒業。1900年(明治33年)、母校の研究生となり英語を専修。同年、与謝野鉄幹が創刊した雑誌『明星』に登美子の歌が掲載された。そして、鉄幹と、翌年、鉄幹と結婚することになる与謝野晶子(旧姓・鳳)に出会った。また、登美子はこのころ、鉄幹が創立した東京新詩社の社友となった。
鉄幹と出会い、歌人として目覚めた登美子は、本格的に和歌の世界にのめり込み、『明星』を舞台に「白百合」の号で、与謝野晶子と歌才を競った。これから女流歌人として歩を進めようかとした矢先、登美子は突然思いもよらない行動に出た。歌の世界へ自分を導いた鉄幹への思慕を断ち、1901年(明治34年)、親の勧めた縁組に従って、山川駐(とめ)七郎と結婚したのだ。登美子22歳のときのことだ。
この点、大阪府堺市の商家で育った与謝野晶子と比較すると対照的だ。武家の重臣の家柄に育った登美子は、自己規制ができる忍耐強い性格だった。これに対して、晶子は奔放華麗で、自分の思いは、親の意向に背いてもやり遂げる性格だった。登美子の親も『明星』に歌が掲載され評判になるのを好まず、女の身で世間に目立つようなことをさせたくないと考え、密かに縁談を進めていたのだ。登美子自身も、親の意思に背くことは親不孝と捉えてもいたのだろう。
登美子にとって、そんな一大決心のもとにスタートさせた結婚生活だったが、不幸にも夫が病気を患って、看病の甲斐なく亡くなり、あっけなく終わりを告げる。肺結核だった。25歳で、寡婦(未亡人)となった登美子は心機一転、1904年(明治37年)、大阪の梅花女学校在学時の第四代校長・成瀬仁蔵が創設した日本女子大学英文科予科に入学し、1907年(明治40年)3月まで同校に在学。その間、復帰した『明星』に「白百合」の号で短歌131首を収載した。鉄幹・晶子との交流も密になった。鉄幹は、登美子を“白百合の君”と称し、愛した。そして1905年(明治38年)、当時の若い世代に圧倒的な支持を受け、後世、浪漫主義の代表的な作品との評価を受けた合同詩集『恋衣(こいごろも)』を茅野(増田)雅子、与謝野晶子との共著で本郷書院から刊行し、登美子は歌人として再起した。
今度こそ、登美子は女流歌人として、さらに飛躍の時期を迎えるはずだった。ところが、またもそれを阻止する不幸が襲う。登美子自身が、夫から伝染した肺結核に犯されていたのだ。それでも病状が進行する中、孤独の中で自らの生を、そして死をみつめ、感覚を研ぎ澄まし、独自の歌境を拓いた。しかし、1909年(明治42年)、登美子は生家でわずか30年の生涯を閉じた。
登美子の後半生は悲劇的だった。第二の人生ともいうべき結婚生活で、まず夫、次いで父を喪(うしな)い、長兄、長姉の死が彼女を襲った。さらに自らも肺結核という死病の床に臥す生活だった。それだけに、普通なら来世は今生とは全く異なる人生を、病気に打ち克つだけの強健な肉体を持つ、たとえば男に生まれ変わりたいと願っても、なんら不思議ではない。ところが、登美子はなお堂々と、来世も女に生まれたいもの-と歌に歌っている。次の歌がそれだ。
「をみなにてまたも来む世ぞ生まれまし 花もなつかし月もなつかし」
志半ばで、遂げられなかった歌の世界への、そして鉄幹への敬慕の思いを、来世ではきっと成就させたいとの哀切の思いからなのか。
また、辞世は
「父君に召されていなむとこしへの 春あたたかき蓬莱のしま」
登美子を顕彰して、彼女が入学してから100年目を迎えた1994年、出身校の梅花女学校(現在の梅花女子大学)主催で「梅花・山川登美子短歌賞」が設けられている。
(参考資料)渡辺淳一「君も○○栗(こくりこ) われも○○栗(こくりこ) 与謝野鉄幹・晶子の生涯」、大岡 信「名句 歌ごよみ 春」