山岡鉄舟・・・江戸100万市民を戦火から救った江戸無血開城の陰の功労者

 明治維新の際、江戸城を平和のうちに明け渡し、江戸100万の市民を戦火から救った功労者の一人に、剣客山岡鉄舟がいた。江戸城明け渡しのための、西郷隆盛と勝海舟との江戸高輪の薩摩屋敷での会見には、実はこの山岡鉄舟も同席していた。

 会談が終わって、夕暮れ近くなってから、海舟が西郷を薩摩屋敷近くの愛宕山に誘った。愛宕山の上から江戸の市中を見て「明後日は、この江戸も焼け野原になるかもしれない」というと、西郷はそれには答えず、「徳川家はさすがに300年の大将軍だけあって、えらい宝物をお持ちですなあ」という。海舟が「徳川家の宝物とは何ですか」と聞く。すると、西郷はこの会談で西郷の身辺警護のためにずっと一緒にいた鉄舟をさして「あの人ですよ。あの人はなかなか腑の抜けた人だ。ああいう人は命もいらない。名もいらない。カネもいらない。実に始末に困る人だ。ああいう始末に困る人でなければ、天下の大事は共に語れない」と、こういう批評をした。

 鉄舟は江戸進軍の途中の西郷にすでに会っていた。上野寛永寺に謹慎中の徳川慶喜は、官軍の江戸入りを前に、静寛院宮ほか公卿を通じて恭順の意を伝える、いろいろな運動をしていた。それらがあまり成功しない中で、慶喜は側近の高橋泥舟に官軍の首脳部に直接交渉してくれるよう頼んだ。泥舟は辞退し、彼が最も信頼のおける人物として、義弟の鉄舟を推薦した。この時まで無名の剣客に過ぎなかった鉄舟は、慶喜の恭順を確かめたうえで、この大役を引き受けた。鉄舟は軍事総裁だった勝海舟に初対面した後、友人の薩摩藩士益満休之助を伴って、押し寄せる官軍の群れをくぐり抜け、駿府(現在の静岡)に陣取っていた西郷隆盛のもとまで出かけた。

 鉄舟の使命は「江戸城は平和裏に明け渡す。慶喜があくまで恭順の意を示していることを伝え、この慶喜を入城後の官軍がどう処するかを確認すること」などだった。勝と西郷との談判の前に、実は駿府での西郷、山岡の下交渉があって、これこそが劇的だったのではないかとの見方がある。勝海舟からの親書と、同伴の薩摩藩士益満休之助に助けられたとはいえ、無官の剣客鉄舟の、官軍総参謀西郷との談判は至難の交渉だったろう。西郷に対し権謀術数ではなく、死を覚悟して、ただ自分の誠心誠意をもってむき出しにいく。こうした鉄舟の姿勢、人間性が西郷の琴線に触れ、江戸無血開城となって結実したといえよう。

 徳川家の三河以来の旗本で、小野家というのがある。本家は210石余の身代だ。分家が四軒あるが、その一つに600石の身代の家がある。その何代目かに朝右衛門高福がいた。妻妾に7人の子女を生ませたが、妻と死別したので、常陸の鹿島神宮の神職塚原石見の二女磯と再婚して6人の男の子を生ませた。その後妻の生んだ一番上の子が、後に山岡鉄舟となる鉄太郎だ。

 鉄太郎は、天保7年6月10日江戸で生まれた。彼は武術に対して天性の素質と興味があった。小野家も代々武術に興味のある家柄だったが、母の生家塚原家は卜伝を出した家で、武術家の血筋だ。両家の遺伝だろう。9歳の時に、久須美閑適斎について、新影流の剣術と樫原流の槍術とを学んだ。11歳の時、父が飛騨高山の代官となって赴任したので、鉄太郎も連れていかれたが、ここで井上清虎について北辰一刀流を学んだ。井上は千葉周作の高弟だ。

 明治5年(1872)、鉄舟は西郷の推薦で明治天皇の侍従となった。平安朝以来、女官たちに囲まれていた天皇の生活に、武骨な男子の気風を注ぎ、宮中の空気を一変させようという西郷の宮中改革に協力したものだった。天皇の側近になってからも、鉄舟は一般の人と積極的に交わった。『怪談牡丹灯籠』をはじめ、多くの名作を生み、明治落語界の巨匠といわれた三遊亭円朝も、鉄舟の弟子の一人だ。

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、海音寺潮五郎「江戸開城」、「日本史探訪22 /山岡鉄舟」(坂東三津五郎・大森曹玄)、五味康祐「山岡鉄舟」         
                    

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