戦国末期の武将で、信長・秀吉・家康に仕え、後の土佐二十四万石の大名となった山内一豊(1546~1605)の妻。近江の若宮家の出といわれるが、確かなことは分からない。千代の生没年は1556年(弘治2年)~1617年(元和3年)。出生地には諸説あり定かではないが、郡上市八幡町と米原市近江町の二つが有力だ。千代は良妻賢母を称える際に必ず名を挙げられる女性で、彼女の「内助の功」に関する逸話は周知の通り。へそくりで奥州の名馬を買い、馬揃えで織田信長の目にとまった話が有名だ。
浪人生活の一豊と貧乏の中で結婚し、その日の糧にも事欠く生活を送っていたとき、一人の馬喰が見事な馬を売りにきた。一豊が大層欲しがるのをみて、千代は“夫の一大事の折に用いよ”と嫁ぐときに育ての親からもらった十両を、鏡筐の底から出して夫に差し出し、その奥州の名馬を買い入れた。
翌年、馬揃えの式で信長の目にとまり、馬を買い入れた経緯を聞き「あっぱれなる女房を持って一豊は天下一の果報者ぞ」と褒められた。その後、一豊はその馬にまたがり、様々な戦場をかけめぐって勇猛振りを発揮したという。ただ、残念ながらこの逸話を証明する史料は何もない。
一豊は信長、秀吉と仕え、秀吉に掛川(静岡)五万石をもらい、大名になる。さらに関ケ原では徳川につき、家康から抜擢を受けて土佐をもらった。一豊というと、奥方の千代が偉くて様々な逸話があるが、作り話が多い。いずれにしても「奥方のおかげ」は幕末までいわれたようだ。頼山陽に千代の才覚をうたった詩があって、これが知れわたって、伝説が文学になって一層広まったとみられる。
では、一豊は千代の力なしには出世できないような人だったのか?確かなことは分からないが、人間の器量が割合大きく「いいたいやつには言わせておけ」とあまり気にとめなかっただけなのではないか。一豊自身、関ケ原の時、掛川の城を家康に「おたくでお使いください」と明け渡した。家康は後で「あそこで山内殿がああいってくれたから、みんなが右へならえしてくれた」と一豊を褒めた。そして、それが土佐二十四万石につながったのだ。
一豊は決してボンクラではなかった。物事はよくできるが、千代の方が頭がよく、カンがよく、世間の見える女だったので、亭主の仕事に口を出したということのようだ。そして、それが幸運にもすべて適切だったというわけだ。
一豊は土佐入国から5年、1605年(慶長10年)61歳で亡くなった。夫の死後、妻千代は出家し、見性院(けんしょういん)となり一豊の冥福を祈りつつ、念仏三昧の穏やかな生活を送るはずだった。ところが、彼女は一豊の存命時代と同様、その政治・外交力などで山内家を助け、京都で61歳で没した。
(参考資料)司馬遼太郎「巧名が辻」、対談集 永井路子vs司馬遼太郎