ギリシア生まれのイギリス人、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)は日本文化に深い愛情と理解を示し、日本の伝承に取材した、「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「むじな」などの『怪談』をはじめ多くの作品を残した。アーネスト・フェノロサ、ブルーノ・タウト、アンドレ・マルローらと並び著名な「日本紹介者」の一人だ。小泉八雲の生没年は1850(嘉永3)~1904年(明治37年)。
小泉八雲の本名はパトリック・ラフカディオ・ハーン(Patrick Lafcadio Hearn)。ファーストネームはアイルランドの守護聖人・聖パトリックに因んでいるが、ハーン自身キリスト教の教義に懐疑的でこの名をあえて使用しなかったといわれる。ファーミリーネームは来日当初「ヘルン」とも呼ばれていたが、これは松江の島根県立中学校への赴任を命ずる辞令に「Hearn」をローマ字読みして「ヘルン」と表記したのが広まり、当人も「ヘルン」と呼ばれることを非常に気に入っていたことから定着したもの。名前の「八雲」は島根県松江市に在住していたことから、出雲国の枕詞の「八雲立つ」に因むとされる。
ラフカディオ・ハーンはギリシアのレフカダ島でアイルランド人の父と、ギリシア人の母との間に生まれた。2歳のとき、アイルランドのダブリンに移るが、まもなく父母の離婚により、同じダブリンに住む大叔母に引き取られた。16歳のとき、ケガで左眼を失明、父の病死、翌年大叔母の破産など不幸が重なり、学校を退学する。そして19歳でアメリカへ渡り、24歳のとき新聞記者となった。その後、外国文学の翻訳、創作を発表して文才を認められ、ハーバー書店の寄稿家となった。
ラフカディオ・ハーンは16歳のとき左眼を失明して隻眼となって以降、晩年に至るまで、写真を撮られるときは必ず顔の右側のみをカメラに向けるか、俯(うつむ)くかして、決して失明した左眼から写らないようにポーズを取っている。
ラフカディオ・ハーンは1890年(明治23年)、特派記者として来日。その後、まもなく東京帝国大学のチェンバレン教授や文部省の紹介で、島根県尋常中学校および師範学校の英語教師となった。ここでは籠手田知事、西田千太郎などの知己を得たこともあって、松江の風物、心情が大変気に入った。そして、松江の士族、小泉湊の娘、小泉節子と結婚し、武家屋敷に住んだ。この後、節子との間に、三男一女をもうけた。
しかし、日本贔屓のハーンも閉口したことがあった。冬の寒さと大雪だ。そのため、彼は1年3カ月で松江を去り、熊本第五高等中学校へ転任。熊本で3年間暮らし英語教師を務めた。長男も熊本で誕生している。1896年(明治29年)、帰化し、「小泉八雲」と名乗った。八雲が赴任していた当時の熊本は西南戦争の後、戦争の焼け跡から復興し、急速に西洋化されつつあった殺風景な町だったが、質実剛健で感情をあまり表に表そうとしない熊本人魂や、路地裏の地蔵祭りなど伝統的な風俗とか飾らない行商人との会話などにとくに興味を抱いていたといわれる。そして、その後、八雲は勤務先を神戸のクロニクル社、上京して東京帝国大学で英文学の講師、さらに早稲田大学と変えている。
この間、彼は「日本瞥見記」「東の国から」「知られぬ日本の面影」などの随筆で、生活に密着した視点から日本を欧米に紹介した。1904年(明治37年)アメリカで刊行された「耳なし芳一」「雪女」「ろくろ首」「むじな」などの話で知られる『怪談』は日本の古典や民話などに取材した創作短編集だ。
小泉八雲は日本文化の基層を成すものは「神道」と考えた。そして、神道を「祖先崇拝」の宗教と捉え、祖先崇拝とはまた死者崇拝とみた。ここで最も基本的な感情は、死者に対する感謝の感情だ。この死者に対する感謝の感情は、日本の庶民の中にはまだ根強く残っていて、それが極めて美しい道徳を形成していることを驚きの目で見つめている。日本の伝統的な精神や文化に興味を持った八雲は、明治以来のいかなる日本人より、はるかに深く日本の思想の意味を理解していたのだ。
(参考資料)梅原猛「百人一語」