小栗忠順は激動の幕末期、反幕府的な勝海舟らと対峙し、財政、外交、軍事に傑出した手腕を発揮した。明治新政府は幕臣であっても優れた人材を数多く登用した。ところが、不思議なことに横須賀造船所を建設し、日本海軍の礎を築いた先見と決断の人、小栗上野介忠順に対してはそうした動きは全くなかった。勝海舟の和平論に敗れた後に1868年、引退した彼が上州権田村・高崎烏川畔で、なぜ斬首されねばならなかったのか。
1867年(慶応3年)12月25日、江戸の三田にある薩摩屋敷が幕府軍に攻撃され、全焼した。これが口火になって戊辰戦争になる。この薩摩屋敷攻撃は西郷隆盛が仕組んだもので、幕府軍がこの挑発に乗ってしまったというのが定説になっている。だが、西郷のこの挑発がなければ幕府に戦争の構えがなかったのか。いや、そうではない。幕府はやる気だった。この幕府のやる気を代表したのが小栗忠順、ときの勘定奉行だった。
小栗は主戦派の先頭に立っていた。それだけに、十五代将軍・徳川慶喜の大政奉還が江戸に知らされたとき、彼は真っ先に「承服できん」と叫んだという。そのときから彼は薩長と戦う準備に入っていた。勘定奉行として軍資金の調達、戦略・戦術、あらゆる方面に手を打っていた。勝算も十分にあった。
後に、官軍の大村益次郎が小栗の戦略を知ったとき、「その通りにやられていたら俺たちの命はなかった」と驚いたという。大村のリップサービスもあるかも知れない。だが、小栗のプラン通りに幕府軍が動いていたら戊辰戦争はどうなっていたか分からない。いやもっといえば、戦況をそのように動かせるように、慶喜に納得させ、行動させることに小栗は失敗したのだ。雌雄を決する瀬戸際で工作に失敗した小栗は、官軍に無条件で降伏したが、殺された。そして、対照的に小栗の意見を退けた慶喜は殺されることなく、世が落ち着いてから華族になった。
1855年(安政2年)小栗は28歳で家を継ぎ、30歳で御使番になった。30歳で世に出たのだから、かなり遅い。そして39歳で官軍に殺されるまでの10年間、何と70数回も職務を変わった。有能だった証明だ。自分から辞めたことも、辞めさせられたこともあった。辞めてもすぐに引っ張り出されるところが能吏たるゆえんだろう。同時に彼が他人と協調しにくい性格だったことも示している。彼は武術と、論語ぐらいは読んだだろうが、学問は実学だけをやった。
1860年(万延元年)、小栗の身の上に画期的な事件が起こった。抜擢人事で目付に任命され、新見豊前守を正使とする条約批准使節一行の監察役として米国に派遣されたのだ。小栗32歳のことだ。
小栗が家督を継いだ頃、油や砂糖の小売りから両替屋に切り替わった紀國屋の婿養子で店主となった三野村利左衛門が、店が小栗家のある駿河台のすぐそばの神田三河町にあったことから、小栗家に出入りするようになり、小栗家の財政運用にタッチしていたという。三野村は後に三井財閥の基を作った人物だ。
1862年(文久2年)、小栗が幕政三本柱の一つ、勘定奉行に初めて就いてから、三野村利左衛門との緊密な関係が作られていったのだ。
冒頭に記した通り、引退して権田村に帰った小栗は官軍によって斬首された。旧幕府の高官で、有無をいわさずに官軍が処刑したのは小栗だけだ。小栗が幕府の主戦派の先頭に立って、「薩長とは断固戦うべき」と主張していただけに、いかに官軍に憎まれていたか、いかに恐れられていたかが分かる。
小栗は官軍からの呼び出しがくると、自分の身辺が危なくなってきたと判断。母の国子、妻の道子らを会津へ落ち延びさせた。道子はそのとき身重だった。道子は会津で一女を産んだが、会津落城とともに東京へ密かに戻り、三野村の保護を受けた。三野村は東京へ置いておくのは危ないと判断して静岡へ送り、箱館で降伏した榎本武揚らが無罪放免になったのをみてから、深川の自宅に引き取った。三野村は明治10年胃がんで病死するが、その前に彼は大隈重信に小栗の遺族のことを託した。また、自分の家族には、小栗家の人たちの生計費を出すように遺言した。
(参考資料)大島昌宏「罪なくして斬らる 小栗上野介」、三好徹「政商伝」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」、小島直記「人材水脈」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、司馬遼太郎「街道をゆく26」