大内義隆 京の都かぶれ、公家かぶれが命取り 重臣に謀反起こされ自害
大内義隆は戦国時代、周防の守護大名・大内氏の第十六代当主だが、京の都の居並ぶ公家たちを凌ぐ、当時の戦国大名としては抜群の高位の従二位を叙任されていた。そして彼自身、学問に理解が深く、なかなかの文化人でもあった。しかし、この京の都かぶれ、公家かぶれが命取りとなり、重臣の陶隆房(すえたかふさ、後の晴賢)に謀反を起こされ、「当代随一の実力者」を自認していた彼もあえなく敗北、自害して果てた。公家風に深入りし過ぎて、居館の館を手薄な防禦で済ませていたことが身を亡ぼす原因になった。
大内義隆は、大内義興の嫡子として大内氏館で生まれた。母は正室、長門守護代の内藤弘矩の娘。幼名は亀童丸、別名は受領名・周防介、尊称・大内介。義隆の生没年は1507(永正4)~1551年(天文20年)。
大内氏の京都趣味は、14世紀後半活躍した先祖の弘世のころから始まったという。周防国の大内村から身を起こし、中国地方の有力大名にのし上がった弘世は、南北朝時代、自ら都へ上り、そのありさまに一驚し、早速本拠の山口に、ミニ京都をつくることを思い立った。ここに○○大路、○○小路と京都もどきの名前を付け始めた。室町末期、父・義興のころは足利将軍家の権威も地に堕ち、家は分裂し戦にもまれる状態で、その将軍の一人、義稙(よしたね)ははるばる大内家を頼って居候になっていたことすらあった。つまり、大内家は将軍のスポンサーになれるほどの実力派だったのだ。
義隆は幼いころから、こうした環境に育った。義隆にとっては京風、公家風はもう付け焼刃なものではなく、地に着いた、あるいは肌に沁みこんだものだった。それだけに、彼自身も学問に理解が深く、なかなかの文化人でもあった。しかも、明国相手の貿易も盛んで、半ば独占的にこれを手がけていた大内氏の利益は大きく、文字通りの「舶来品」がどんどん入ってきた。この大内家の繁栄を見抜いて、海の彼方からも珍客がやってきた。キリシタン・バテレンの宣教師フランシスコ・ザビエルだ。彼は義隆に大時計や火縄銃を献じ、ここを日本布教の根拠地として活動を始めた。こんなことが重なっただけに、義隆も我こそは当代随一の実力者と思い込んだとしても無理はない。
そんな義隆の心情を如実に示したのが、彼の嫁取りだ。彼は政略結婚で周辺の有力戦国大名の娘との婚姻といった、当時ありがちな嫁選びはしなかった。妻には都の公家の姫君を迎えた。万里小路秀房(までのこうじひでふさ)の娘、貞子といい、15歳のときに輿入れしてきた。義隆はこの京人形のような妻を愛した。が、あるとき公家かぶれの義隆が、ふと浮気心を起こして貞子の侍女に手を出し、それが発覚。夫の浮気に憤慨した彼女は遂に都へ帰ってしまった。
浮気がバレて妻に逃げられるとは戦国大名としてはとんだ赤っ恥だが、義隆にとって取り返しのつかない失敗が、居館の防備だった。万事公家好みの彼の山口の館は防備万全の城ではなかった。都の天皇や将軍の御所に倣って、周囲を土手で囲んだ「御館(おやかた)」しかつくらなかったのだ。食うか食われるかの戦国、こんな手薄な防禦ではひとたまりもない。重臣の陶隆房に謀反を起こされ、あえなく敗北してしまう。彼は船に乗って九州に逃れたかったようだが、風波に遮られてそれも果たせず、長門の大寧寺で自害して果てた。
順序が相前後するが、義隆の若き日の姿を少し触れておく。彼は元服後の1522年(大永2年)から父・義興に従い、1524年(大永4年)には安芸に出陣した。岩国永興寺から厳島へ入り、陶興房とともに安芸武田氏の佐東銀山城を攻めた。しかし、8月には尼子氏方として救援に赴いた毛利元就に敗退した。また、山陰の尼子氏とも干戈(かんか)を交えた。1528年(享禄元年)、父の死去に伴い家督を相続した。
(参考資料)福尾猛市郎「大内義隆」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」