大久保利通は、近代日本が生んだ第一級の政治家だ。周知の通り、西郷隆盛、木戸孝允と並び称される「明治維新三傑」の一人だが、日本の官僚政治の始祖といっていいかも知れない。冷徹な計画性、着実な行動力、感情におぼれることのない理性など、官僚政治家に求められる資質を備えた第一級の人物だったことは間違いない。大久保の生没年は1830(天保元)~1878年(明治11年)。
大久保は明治政府にあって、近代国家日本の基礎を、ほぼ独力で創始した。期間にしてわずか11年。厳密には」欧米列強への歴訪を終えて帰国した1873年(明治6年)から、紀尾井坂で暗殺される1878年(明治11年)までの5年ほどの間に、「富国強兵」「殖産興業」の二大スローガンに代表される、日本の方向、性格を決定づけたといっても過言ではない。
大久保は「内務省」を創設し、一部エリートによる独裁をもって、日本の国力を短時日に欧米列強へ追い付かせるというプロジェクトを策定した。そのために、「薩長に非ずんば人に非ず」とまでいわれた藩閥政治の時代にあっても、非藩閥出の人々も含め、実に効率よく適材適所にあてはめている。それが様々な問題点を抱える人物であっても、明治国家にとって必要な人材と判断すれば、あえて火中の栗を拾うように、その人物を庇い同僚の参議たちに頭を下げた。
黒田清隆や山県有朋らはその好例だ。黒田清隆は戊辰戦争において五稜郭攻めの司令官を務め、敵将の榎本武揚、大鳥圭介らを降伏させ、後に助命嘆願を周旋。しかも、彼らを政府に出仕させる離れ業までやってのけた。だが、黒田には一定量を超すと人が変わり、何をしでかすか分からない、恐ろしいぐらいの酒乱癖があった。
山県有朋は幕末の長州藩に、しかも奇兵隊に参加していなければ、恐らく歴史に名をとどめることはなかったろうと思える程度の人物だった。それが、藩内の動乱期(長州征伐)、高杉晋作、大村益次郎という天才軍略家を相次いで担ぎ、その下で着実に地歩を築き、明治以後、長州藩の恩恵でいきなり陸軍中将となったのだ。大村が暗殺され、山県には大村がやり残したことを仕上げる役割が残された。しかし、山県への風当たりは強く、金銭に汚いとの個人的悪評も重なって、味方であるはずの長州藩の木戸孝允からも嫌われた。そんな“奸物”、権謀術数をもっぱらとした山県を、大久保は重用した。
薩長閥出身者はいずれもひと癖もふた癖もあり、性格的にも問題のある人物が少なくなかった。一方、非藩閥出の人々は逆に、優秀で実直な人物が数多あったが、彼らにはその力量を発揮すべきポストが与えられにくかった。
能力第一主義。大久保は欠点に優る長所があれば、多少のリスクを犯してもそうした欠陥人間をも登用、抜擢して用いる、そんな割り切り方をした。盟友の西郷隆盛は、大久保のこのやり方を不愉快に思い、木戸孝允は声を荒げて非難した。だが大久保は、西郷や木戸にもなんら抗弁もせず、そのやり方を変えることはなかった。
大久保は1878年(明治11年)、紀尾井坂で西郷崇拝の加賀の青年、島田一郎・長連豪・脇田巧一らに暗殺され非業の死を遂げた。大久保はぜいたくな生活をしていたので、御用商人などから収賄して、ずいぶん巨額な財産を残しているだろうと思っている人が多かった。しかし、死後、遺産整理してみると現金わずかに数百円、借財が8000円余もあった。そして、その貸主は全部、知己・朋友で、癒着していると思われた富豪・御用商人などは一人もいなかったという。大久保が登用した人物には金銭的に随分、富豪・御用商人との癒着が指摘された者も少なくなかったが、自身は間違いなく清廉潔白の人だったのだ。
大久保は薩摩国鹿児島城下高麗町(現在の鹿児島市高麗町)で、琉球館附役の薩摩藩士、大久保次右衛門利世と皆吉鳳徳の次女ふくの長男として生まれた。幼名は正袈裟(しょうけさ)、のち正助、一蔵。一蔵がよく知られている。家格は御小姓組と呼ばれる最下級武士。幼少期に大久保一家は甲突川を隔てた下加治屋町に移り住んだ。ここは島津家の下級武士の住む町で、70軒ぐらいの戸数だったが、ここから西郷隆盛・従道兄弟、日露戦争のときの陸軍の大山巖、海軍の東郷平八郎など、明治を飾る偉人が多く輩出したことで有名な町だ。
(参考資料))海音寺潮五郎「西郷と大久保」、海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」松永義弘「大久保利通」、奈良本辰也「男たちの明治維新」、加来耕三「日本創始者列伝」、「翔ぶが如く」と西郷隆盛 目でみる日本史(文芸春秋編)、安部龍太郎「血の日本史」