人には早熟型と大器晩成型のタイプがある。ここに取り上げる北条義時は、まさに後者のタイプだ。彼は40歳を超えたころから、鎌倉幕府内で不気味な光を放ち始めたのだ。伊豆の小豪族、北条氏が財閥クラスの大豪族と付き合ううち、徐々に実力を付け、人々が気がついたとき、いつの間にか北条氏は、幕府内で押しも押されもせぬ大派閥に伸し上がっていた。
頭がよくて、大胆で、しかも慎重で、ちょっと見には何を考えているのか分からないような男、それが北条義時だった。病的なくらいに用心深く、疑り深い人物だったあの源頼朝でさえ、信用し切っていたというから、“猫かぶり”の名人だったかも知れない。そして、源氏の「天下」を奪ったのは紛れもなく、この北条義時なのだ。義時は恐らくこう宣言したかったに違いない。「天下は源氏の天下ではなく、武士階級全体の天下であり、源氏はその本質は飾り雛に過ぎない」と。
北条義時の父は時政。姉は政子、つまり源頼朝は彼の義兄にあたる。彼が17、18歳になったころ、頼朝の挙兵があり、一家は動乱の中に巻き込まれるのだが、その中で彼は目立った活躍はしていない。平家攻めにも出陣しているが、彼の手柄話は全くない。つまり、このころは面白くもおかしくもない、極めて印象の薄い人物だったのだ。それから約10年、鳴かず飛ばずの日々が続く。気の早い人間が見たら、「こいつはもう出世の見込みはない」と決め込んでしまうところだ。
ところが、義時は40歳を超えてから輝きだす。初めは父の時政の片腕として、後にはその父さえも自分の手で押しのけて、姉の政子と組んで、北条時代の基礎を固めてしまう。彼はいつも姉の政子を上手に利用した。頼朝の未亡人だから、政子の意志は随分権威があったのだ。政子には男勝りの賢さがあった。また彼女は、頼朝との間に生まれた頼家(二代将軍)や実朝(三代将軍)にはもちろんのこと、頼家の子の公暁にも深い愛情を持っていた。そんな政子は義時の巧妙で自然なお膳立てにあって、それを支持しないわけにいかず、遂に婚家を滅ぼし、その天下を実家のものにしてしまう結果になった。
結果的に北条氏の勢力拡大に大いに手を貸したのが、鎌倉三代将軍源実朝だった。実朝はもはや政治への出番がなく、彼自身はいわば北条氏の“操り人形”に過ぎず、実権のない将軍を演じることと引き換えに、和歌の世界を生きがいとして、のめり込んでいったからだ。実朝は藤原定家に和歌を学び、京都風の文化と生活に傾斜していった。武士団の棟梁であるはずの鎌倉殿のそんな姿に関東武士たちの間に失望感が広がっていった。
北条義時はこの情勢を格好の機会とみて、“源氏将軍断絶”と“北条氏による独裁支配”の計画を推し進めたのだ。義時は1213年(建保1年)、関東の大勢力の和田義盛を打倒。これまでの政所別当に加え、義盛が担っていた侍所別当を合わせて掌握。これにより政治権力と軍事力、北条義時はいまやこの二つを手中にした。そして、いよいよ北条氏による執権政治の基礎を築いたわけだ。
実朝暗殺事件はこれまで、北条義時の企んだ陰謀と思われてきた。彼の辣腕ぶりをみれば、そうみられるのもやむを得ないことだし、政治・軍事両面をわがものとした義時が、将軍の入れ替えを計画したのではないかと誰しも考えるところだ。ただ、この暗殺事件を企図したのが、北条氏でなくて、ライバル潰しを目的としたものだったと仮定すれば、事件の首謀者は北条氏のライバル=三浦氏一族とも見られるのだ。
ともかく、こうして幕府は北条氏のものとなった。将軍はいても何の力もない“ロボット”で、義時が執権という名で、天下の政(まつりごと)を取ることになったのだ。
また、「承久の乱」の毅然とした後処理によって、北条義時は北条執権体制をいよいよ確立する。承久の乱は、実朝の後継者をめぐって、幕府側が朝廷に後鳥羽上皇の皇子をもらい受けたいと申し入れたのに対し、後鳥羽上皇側が交換条件に土地の問題を持ち出し幕府に揺さぶりをかけ、地頭職の解任要求を打ち出してきたのだ。ここは義時が頼朝以来の原則を守り通し、後鳥羽側の要求を拒否した。これに対し、後鳥羽側も皇子東下はピシャリと断ってしまった。ただ、朝廷側にとってそのツケは大きかった。義時は後鳥羽上皇以下の三上皇と皇子を隠岐、佐渡などに配流処分として決着した。
北条執権体制、この政治形態を永続性あるものにしたのは義時の子、北条泰時だ。
(参考資料)永井路子「源頼朝の世界」、永井路子「炎環」、永井路子「はじめは駄馬のごとく ナンバー2の人間学」、安部龍太郎「血の日本史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」、司馬遼太郎「街道をゆく26」