加藤清正 秀吉の遠戚として将来を期待され、生涯忠義を尽くした武闘派

加藤清正 秀吉の遠戚として将来を期待され、生涯忠義を尽くした武闘派

 加藤清正は羽柴秀吉の小姓からスタートし、秀吉の出世とともに家臣として各地を転戦して武功を挙げ、秀吉没後は徳川氏の家臣となり、関ケ原の戦い後、肥後熊本藩の初代藩主となった。加藤清正の生没年は1562(永禄5)~1611年(慶長16年)。

 加藤清正は尾張国の鍛冶屋、加藤清忠の子として尾張国愛知郡中村(現在の名古屋市中村区)に生まれた。幼名は夜叉若、元服後、虎之助清正と名乗った。父は清正が幼いときに死去したが、母・伊都が秀吉の生母、大政所の従姉妹(あるいは遠縁)だったことから、近江長浜城主となったばかりの秀吉の小姓として出仕し、1876年(天正4年)に170石を与えられた。

 清正は大男だった。鯨尺四尺三寸に仕立てた着物の裾が、膝下の三里から少し下のところまでしかなく脇差が備前兼光で三尺五寸あったというから、どう考えても身長六尺三、四寸はあったに違いない。彼の乗馬、帝釈栗毛は丈・六尺三寸あったという。普通の馬は五尺だ。彼は常にこれに乗って、江戸市中を往来した。清正はまた長いあごひげを伸ばしていたので、いやがうえにも長身に見えたに違いない。さらに、彼の長烏帽子(ながえぼし)の冑(かぶと)だ。六尺三、四寸もある男が、長いあごひげを生やし、あの長い冑を被っているとあっては、ものすごく丈高く、ものすごく堂々たる威容があったと思われる。もともと甲冑は、敵の攻撃から自分の身を保護するだけのものでなく、敵を威嚇する目的も持っているものだから、清正もそのへんの効果を考えて、あんな冑をこしらえたものだろう。

 ところで、清正は秀吉の遠戚として将来を期待され、秀吉に可愛がられた。清正もこれに応え、生涯忠義を尽くし続けた。1582年(天正10年)本能寺の変が起こると、清正は秀吉に従って山崎の合戦に参加した。翌年の賤ヶ岳の戦いでは敵将・山路正国を討ち取る武功を挙げ、秀吉から「賤ヶ岳の七本槍」の一人として3000石の所領を与えられた。1585年(天正13年)、秀吉が関白に就任すると同時に従五位下主計頭に叙任。1586年(天正14年)からは秀吉の九州征伐に従い、肥後国領主となった佐々成政が失政により改易されると、これに替わって肥後北半国19万5000石を与えられ熊本城を居城とした。

 肥後において清正は優れた治績を残している。清正というと土木・治水事業をまず想像するが、彼は田麦を特産品化し、南蛮貿易の決済に充てるなど、治水事業同様、商業政策でも優れた手腕を発揮した。1589年(天正17年)、小西行長領の天草で一揆が起こると、小西行長の説得を無視して出兵を強行、これを瞬く間に鎮圧している。風貌にふさわしい、“武闘派”の片鱗をみせた。

 「関ケ原の戦い」の後、西軍に味方した小西行長が没落し、徳川家の家臣となった加藤清正が肥後一国52万石の熊本城主となった。しかし、清正の子、忠広のとき、徳川三代将軍家光の弟、駿河大納言忠長の失脚事件に連座し、1632年(寛永9年)加藤家は領地を没収され、忠広は出羽庄内(現在の山形県櫛引町)に流罪となった。そして、細川忠利が豊前小倉39万9000石から加増され入封したのだ。以後、熊本藩は細川家による治世が続くことになった。

(参考資料)海音寺潮五郎「史談 切り捨て御免」、海音寺潮五郎「乱世の英雄」、童門冬二「人間の器量」、永井路子「にっぽん亭主五十人史」中嶋繁雄「大名の日本地図」

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