佐倉惣五郎は江戸時代前期、自身の命を賭けて藩主の苛政を将軍に直訴した下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主だったといわれる。その結果、藩主の苛政は収まったが、惣五郎夫妻、そして4人の子供までも磔となってしまった。後世、物語や芝居の題材に取り上げられ、佐倉惣五郎は“義民”として知られるようになった。生没年は不詳。俗称は宗吾。
佐倉惣五郎の名は江戸時代の百姓一揆の指導者として有名だ。しかし、有名なのは芝居として上演されたりしてきたためで、史実ではなく伝説としての惣五郎といった色彩が濃い。そのため、少し前までは惣五郎は架空の人物で、実在しなかったのではないかと主張する研究者もいたほどだ。実在か非実在かの論争に決着をつけたのは児玉幸多氏だ。当時の名寄帳に「惣五郎」という名前があることから、惣五郎の実在が確認されたのだ。その名寄帳によると、惣五郎は3町6反の田畑を持ち、9畝10歩の広さの屋敷を持っていたことが分かる。そこで、当時の百姓としては上層部に属していたことも判明した。しかし、確実な史料によって確認されるのはそこまでで、彼が名主だったとか、さらに割元名主(大庄屋)だったとか、直訴を行ったなどということは確かめることはできない。
土地の農民たちの間で語り伝えられていた惣五郎伝説が、文字となって他の地域の人々に知られるようになったのは、18世紀に入ってからのことと思われる。1715年(正徳5年)、磯部昌言編の「総葉概録」に惣五郎伝説の概要が記されている。しかも、惣五郎が冤罪で殺され、その祟りで藩主堀田氏が滅びてしまったことまで書かれている。しかし、今日流布しているような物語性を持った惣五郎伝説が成立してくるのはもっと後のことで、「地蔵堂通夜物語」「堀田騒動記」「佐倉義民伝」が世に出てからのことだ。これらは18世紀末から19世紀初めにかけての成立と思われ、伝えられる直訴事件があってからすでに150年近くも経っていたわけで、これらから史実を探っていくことは困難といわざるを得ない。
惣五郎の住む公津村は佐倉藩領だった。藩主堀田正盛が1651年(慶安4年)、三代将軍家光の死に殉じ、子の正信の代になって急に年貢・諸役の増徴を始めたのだ。佐倉藩領は1644年(正保元年)からの凶作ですでにかなり疲弊していたが、そのうえの増徴ということで、百姓たちは困窮の極みに達していた。そこで、惣五郎をはじめとする藩領村々の名主たちは、とりあえず百姓たちの窮状を代官や奉行および家老たちに訴えた。しかし、その訴えは取り上げてもらえなかったのだ。その頃には百姓一揆を起こそうとする動きも起き始めていたが、惣五郎ら名主はそうした動きを押さえ、名主たちの連判状を持って、江戸の藩邸へ訴え出た。こうした「代表越訴型一揆」までも江戸の藩邸では却下されてしまい、惣五郎らは老中の久世広之に駕籠訴をしている。しかし、それも成功しなかった。
こうなると、百姓一揆の蜂起を食い止めるには、将軍への直訴しかない。そこで、惣五郎は四代将軍家綱が上野寛永寺に参詣するときを狙って越訴に及んだというわけだ。もっとも、越訴を決行した時期については1652年(承応元年)とする説、その翌年とする説がありはっきりしない。しかし、越訴の結果、1654年(承応3年)、佐倉藩は加重した年貢・諸役を免除している。このまま何もお咎めがなければ、あるいは惣五郎伝説は生まれなかったかも知れない。越訴は違法行為なので、成功しても成功しなくても、自分は死罪を免れないと思って覚悟していたろう。惣五郎だけの死罪であれば、あるいは怨霊伝説は生まれていなかった。
ところが、堀田正信は24歳という若さのゆえか、越訴をされ自分のプライドに傷をつけられた思いだったからか、惣五郎の妻子にまで過酷な処罰を科したのだ。妻はもちろん、何の罪もない4人の子供まで磔にされているのだ。惣五郎とその妻が見ている前で4人の子供を殺すという残虐ぶりだった。このときの惣五郎の怨みが以後、怨霊となって正信に祟ることになる。
千葉県成田市にある真言宗豊山派の寺、東勝寺には義民・佐倉惣五郎を祀る霊堂があることから、同寺は宗吾霊堂(そうごれいどう)とも呼ばれる。
(参考資料)小和田哲男「日本の歴史がわかる本」
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