井原西鶴はわずか1日で2万を超える句を詠み、10年とちょっとで30もの人気作品を著した元禄の鬼才だ。醒めた眼で金銭を語り、男と女の交情をあますところなく描き、芸能記者にして自らも芸人、そしてエンタテインメント作家として絶大な人気を博した。しかもその作風は実に多様で、江戸時代前期、300年以上も前の人物でありながら、幸田露伴、樋口一葉、芥川龍之介、太宰治、吉行淳之介など近代から現代まで、現在活躍している作家たちにも様々な影響を与えてきた。
ただ、井原西鶴のこうした名声の割には、伝記的なことがさっぱりわかっていない。資料が少ないのだ。大坂の裕福な町人の出といわれているが、詳細は分かっていない。本名は平山藤五(ひらやまとうご)、生没年は1642年(寛永19年)~1693年(元禄6年)。江戸時代の浮世草子・人形浄瑠璃作者、俳人。別号は鶴永、二万翁。晩年名乗った西鶴は、時の五代将軍綱吉が娘、鶴姫を溺愛するあまり出した「鶴字法度」(庶民が鶴の字を使用することを禁じた)に因んだもの。
西鶴といえば「好色一代男」に代表される小説家のイメージが強いが、もともとは俳人だ。西鶴が1日で2万余句の記録を打ち立てたのは、小説デビュー作となった「好色一代男」を出版した翌々年のことで、その後、作句活動を一時期中断したこともあるが、晩年は再び俳句に情熱を燃やしている。15歳の頃から俳諧を学び始め、当時は俳句の方が小説よりも芸術として上位にみられていただけに、終生俳人のプライドを軸にしながら、生涯最後の10年間を小説にも活躍の場を広げたというのが的を射ているのかも知れない。
俳句の神様とされる松尾芭蕉と同世代で、同じ時代に生きた。だが、「量より質」の芭蕉に対し、西鶴は「質より量」で、記録が先行気味で作品の影は薄い。小説家としての西鶴の作品は、愛欲の世界を描く好色物、武士社会を扱う武家物、説話を換骨奪胎した雑話物、経済生活を描く町人物などに分類されることが多い。
西鶴の略年譜をみると、15歳の頃、俳諧を学び始め、21歳の頃、人の俳句を採点する点者に、そして25歳のとき「遠近(おちこち)集」の「鶴永」の号で俳句入集。西鶴俳句の初見だ。33歳の正月、俳句に初めて「西鶴」と署名。36歳のとき、生玉本覚寺で一昼夜1600句独吟を興行、「西鶴俳諧大句数」と題して刊行。41歳のとき、最初の浮世草子「好色一代男」刊行。43歳のとき、「諸艶大鑑」(好色二代男)刊行。住吉神社にて一昼夜2万3500句の独吟を興行。44歳のとき、「西鶴諸国ばなし」刊行。45歳のとき、「好色五人女」「好色一代女「本朝二十不孝」刊行。46歳のとき、「男色大鑑」「武道伝来記」刊行。47歳のとき、「日本永代蔵」「武家義理物語」「嵐無常物語」「好色盛衰記」刊行。48歳のとき、「一目玉鉾」「本朝桜陰比事」刊行。51歳のとき、「世間胸算用」刊行52歳のとき、「浮世栄花一代男」刊行し、この年大坂で亡くなっている。死を迎えるまでの10年ちょっとの間に次々と小説を刊行、濃密な時間を過ごしたことがよく理解される。
(参考資料)浅沼 璞「西鶴という鬼才」