上野彦馬・・・日本の写真術の開祖の一人で、貴重な資料を後世に伝える

 上野彦馬は日本の写真術の開祖の一人で、日本初のプロカメラマンだ。彼はその生涯を通じて日本の写真術の確立とその発展に尽力し、幕末から明治にかけての激動の時代を、カメラを通して切り取り、結果として多くの貴重な資料を後世に伝えた。生没年は1838(天保9)~1904年(明治37年)。

 上野彦馬は長崎の蘭学者、上野俊之丞の次男として生まれた。父・俊之丞は長崎奉行所の御用時計師で、火薬材料や更紗の開発も手がけ、1848年(嘉永1年)、オランダから発明当初の写真術ダゲレオタイプの機材一式をいち早く輸入したことで知られている。ダゲレオタイプの写真術はフランスのルイ・ジャック・マンデ・ダゲールによって発明され、1839年にフランス学士院で発表されたもの。銀板上にアマルガムで画像が形成される。1回の撮影で1枚の写真しか得ることができず、でき上がった写真は左右逆像だ。

 1850年に俊之丞が没し、彦馬は12歳で家督を相続。1852年、大分日田の 広瀬淡窓の塾、咸宜園(かんぎえん)で漢学を学んだ。1856年(安政3年)、長崎へ帰り、オランダ語を通詞・名村八右衛門に伝授される。さらに1858年、長崎海軍伝習所の医官を勤めていたオランダ人軍医ポンペ・ファン・メーデルフォールトの医学伝習所で舎密学(化学)を学ぶうち、写真術に関する記述を見い出して興味を覚え、津藩士、堀江鍬次郎とともに写真術の研究を始めた。しかし、当時の日本では感光材として必要な薬品の入手さえままならず、それに加えて世間の無理解による中傷も激しく、その苦労、苦心はひと通りではなかった。

 1861年(文久1年)、彦馬らは津藩主・藤堂高猷(たかゆき)の出資で、フランスから最新の写真機材と感光材の薬品を取り寄せ、江戸の津藩邸で藩主の肖像撮影に成功。1862年(文久2年)、堀江の協力を得て津藩藩校の有造館の化学教科書「舎密局必携」を著し、同書中の「撮形術ポトガラヒー」の項で写真技術の詳細について述べている。ちなみに、この「舎密局必携」は明治の学制改革まで日本全国で化学の教科書として使われた。

 様々な困難を乗り越えた彦馬は写真技術の修得に取り組み、1862年(文久2年)、長崎で日本の最初の写真館「上野撮影局」を開業した。彦馬の写真技術は評判で、撮影料が現在の価格に換算すると1枚につき2~3万円という高価なものにもかかわらず、多くの才人たちが彦馬の写真館を訪れている。この中には坂本龍馬、高杉晋作、木戸孝允、伊藤博文といった幕末の日本を動かした大物たちや、フランス人文学者ピエール・ロチ、清国提督、丁汝昌、ロシア皇太子ニコライ二世など歴史上の人物もいた。

 明治期に入っても彦馬は写真師として旺盛な活動を続け、1874年(明治7年)、金星の太陽面通過を観測した日本最初の天文写真を撮影。1877年(明治10年)には長崎県令・北島秀朝の委嘱により、西南戦争の戦跡を記念撮影。陸軍参謀本部に提出されたそれらの写真は、現存する日本写真史上最初の戦争写真の一つとして知られている。1890年(明治23年)には上野撮影局支店をロシア沿海州のウラジオストクや中国の上海、香港にも開設。国際的な視点でみても、現代ではちょっと考えられないほど写真術の技量の高さを証明してみせた。

(参考資料)小沢健志 編「幕末 写真の時代」

前に戻る