三浦鞍針 俸禄を与えられ徳川家康に仕えた英航海士・貿易家
三浦鞍針ことウイリアム・アダムスは、江戸時代初期に徳川家康に外交顧問として仕えたイギリス人航海士・水先案内人・貿易家だ。家康から俸禄とともに、「三浦鞍針」という日本の名を与えられ、異国人でありながら、日本の武士として生きるという数奇な境遇のもとで、その生涯を終えた。奇人、ウイリアム・アダムスの生没年は1564~1620年。
イングランド南東部のケント州ジリンガムの生まれ。船員だった父親を亡くして故郷を後にし、12歳でロンドンのテムズ川北岸にあるライムハウスに移り、船大工の棟梁ニコラス・ディギンズに弟子入り。造船術より航海術に興味を持つ少年だったという。
ウイリアム・アダムスが、自身の人生を大きく変えることになったのは、1598年、弟のトーマスらとオランダのロッテルダムから極東を目指す、5隻からなる船団の航海士として乗船したことだった。ウイリアム・アダムス34歳のときのことだ。彼は英国海軍の貨物補給船に身を置き、海戦にも参加したことがあったが、当時は軍を離れて「バーバリー商会ロンドン会社」の航海士・船長として北方航路やアフリカへの航海で多忙で、ほとんど家にいることはなかったらしい。そして、25歳のときに結婚したメアリー・ハインとの間に娘デリヴァレンスと息子ジョンの二子をもうけていた。
極東を目指した航海は惨憺たるありさまで、マゼラン海峡を抜けるまでに、スペイン船に拿捕される船、沈没する船が出る一方、インディオの襲撃に遭うなど次々に船員を失った。弟のトーマスもインディオに殺害された。その結果、極東に到着したのはウイリアム・アダムスが航海士として乗船していたリーフデ号1隻で、出航時110人だった船員は、日本到着までに24人に減っていた。
1600年(慶長5年)リーフデ号は豊後の臼杵に漂着した。疲労と憔悴で、自力では上陸できなかった乗組員は、臼杵城主、太田一吉の出した小船でようやく日本の土を踏んだ。その後、当時、豊臣政権の下で五大老首座だった徳川家康がアダムス、ヤン=ヨーステン・ファン・ローデンスタイン、メルキオール・ファン・サントフォールトらを初めて大阪で引見。
イエズス会士の注進でリーフデ号を海賊船だと思い込んでいた家康は、路程や航海の目的、オランダや英国など新教国とポルトガル・スペインら旧教国との紛争を臆せず説明するアダムスとヤン=ヨーステンを気に入って誤解を解いた。家康はしばらく彼らを投獄したものの、何度か彼らを引見した後、釈放。そして城地の江戸へ彼らを招いた。
江戸に到着後、アダムスは繰り返し英国への帰国願いを出したが叶わず、家康は米や俸禄を与えて慰留。外国使節との対面や外交交渉に際して通訳を任せたり、助言を求めることが多かった。この時期、幾何学や数学、航海術などの知識を家康以下の幕閣に授けたといわれている。帰国を諦めつつあったアダムスは1602年頃、日本橋大伝馬町の名主で家康の御用商人でもあった馬込勘解由の娘、お雪(マリア)と結婚。彼女との間に息子のジョゼフと娘のスザンナが生まれている。
結婚し家族を得たことでアダムスは精神的に安定、家康の意向に沿って動いている。船大工としての経験を買われて、伊東に日本で初めての造船ドックを設けて80㌧の帆船を建造した。1604年(慶長9年)完成すると、家康は気を良くしてアダムスに大型船の建造を指示、1607年には120㌧の船舶を完成させた。
この功績を賞した家康は、更なる慰留の意味もあってアダムスを250石取りの旗本に取り立て、帯刀を許したのみならず、相模国逸見(へみ)に采地も与えた。また、三浦鞍針の名乗りが与えられた。まさに、破格の扱いだ。“三浦”は領地のある三浦半島に因むもので、“鞍針”は彼の職業で水先案内人の意。この結果、彼は異国人でありながら、日本の武士として生きるという数奇な人生を送ることになった。この所領は息子のジョゼフが相続し、三浦鞍針の名乗りもジョゼフに継承されている。
鞍針の墓は長崎県平戸市の「崎方公園」にある。また、神奈川県横須賀市西逸見(にしへみ)町の「塚山公園」には鞍針夫妻の慰霊碑があり、1923年、国の史跡に指定された。
(参考資料)白石一郎「航海者」、邦光史郎「物語 海の日本史 三浦按針」