三浦環は日本で初めて国際的な名声をつかんだオペラ歌手だ。十八番だった、プッチーニの『蝶々夫人』の蝶々さんと重ね合わされて、国際的に有名だった。三浦環の生没年は1884(明治17)~1946年(昭和21年)。
三浦環は東京・芝で公証人の柴田猛甫を父に、永田登波を母に生まれた。元の名は柴田環、次いで藤井環。1900年に東京音楽学校に進みピアノを滝廉太郎に師事。1903年、東京音楽学校在学中、日本人による最初のオペラ『オルフェオとエウリディーチェ』上演にエウリディーチェ役で出演した。1904年に卒業後、補助教員として東京音楽学校に勤務、その後助教授となった。この間に山田耕筰らを指導したといわれる。
1911年に帝国劇場に所属し、翌年からプリマドンナとして活躍を続けた。1913年に柴田家の養子で医師の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツに留学した。しかし、第一次世界大戦の戦火を逃れて、イギリスに移動。1915年、ロンドンのオペラハウスに日本人として初めてプリマドンナとして出演。プッチーニの『蝶々夫人』を歌った。この英国デビューの成功を受けて、1916年に渡米し、ボストンで初めて蝶々さんを演じた。好意的な批評によってその後、「蝶々夫人」やマスカーニの『あやめ』をニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴで演ずることができた。ちなみに三浦環はメトロポリタン歌劇場に迎えられた最初の日本人歌手だ。
三浦環はその後、ヨーロッパに戻り、ロンドンでビーチャム歌劇団と共演した。1918年、米国に戻り、『蝶々夫人』とメサジェの『お菊さん』を上演するが、後者は「蝶々さん」の焼き直しに過ぎないとして不評だった。1920年にモンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリの歌劇場に客演した。1922年帰国すると、長崎に留まり『蝶々夫人』とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開いた。三浦環が蝶々さんに扮した姿の銅像は、プッチーニの銅像とともに、長崎市のグラバー園に建っている。
三浦環は欧米各国で20年間に2000回にわたり蝶々さんを演じた。ソプラノのその明澄甘美な歌声は、作曲者のプッチーニに「わが夢」と激賛されるほどだった。1935年(昭和10年)帰国し、翌年、歌舞伎座で2001回目の『蝶々夫人』演奏会を開催。以後、死ぬまで10年間は日本で演奏教育活動を行った。
『蝶々夫人(=マダム・バタフライ)』はJ.L.ロングの原作(1895年)で、明治中期の長崎を舞台に、士族の娘お蝶とアメリカ海軍のピンカートン中尉との愛と悲劇を描いた作品だ。二人は恋をし、結婚して子供までもうける。しかし、ピンカートンは帰国することになる。彼はそのうち戻るからといって単身でアメリカへ帰ってしまう。やがて3年の月日が流れ、やっとピンカートンが長崎にやってきたが、彼の側にはアメリカで結婚したケイトが付き添っていた。ピンカートンを信じきっていたお蝶はショックを受け、このまま侮辱を受けるよりは、武士の娘として高貴な死を選ぼうといって自刃して果てる-こんなストーリーだ。
この物語は実話を元にしているとされ、グラバー園のトーマス・グラバーと夫人の鶴さんがモデルではないかとの説もある。ただ、この種の話は当時、随分多かったようで定かではない。実際にはグラバーは帰国せず、日本で様々なビジネスに取り組み、東京・麻布で亡くなっている。
(参考資料)白石一郎「異人館」