今も長崎の地に邸宅跡が「グラバー園」として一般公開され、観光名所にその名を残すトーマス・グラバーは、イギリス人の政商だ。幕末に暗躍した武器商人で、本国の英国と取引相手が対立した際も武器の販売は止めようとはせず、それでも罪を着ることなく、巧みに、そしてしたたかに激動期を生き抜いた怪人だった。徳川家とは距離を置き、薩摩・長州・土佐など討幕派を支援し、坂本龍馬の亀山社中とも取引があった。
有名なオペラ「お蝶夫人」のモデルになっている。つまり、お蝶さんの愛人はグラバーをモデルにしている。実際のグラバーは、オペラと違って「ある晴れた日」に、故国に戻って二度と帰らぬということはなかった。グラバーは「談川ツル」という日本人女性を妻とし、長女・ハナ、長男・倉場富三郎の二子をもうけている。明治44年に東京で死んだ。
あまり知られていないが、明治以降は高島炭鉱の経営にあたった。蒸気機関車の試走、ドック建設、炭鉱開発など日本の近代化に果たした役割は大きい。造船の街、長崎の基礎をつくったのだ。グラバーこと、トーマス・ブレーク・グラバーの生没年は1838~1911年。
1859年(安政6年)5月28日、徳川幕府が神奈川、長崎、箱館の3港を開き、米国、オランダ、ロシア、フランス、英国の5カ国との貿易を許可。次いで6月20日、外国の武器を日本側が購入することも許可。そうした状況下、駐日総領事として英国からやってきたのがオールコックだ。
トーマス・ブレーク・グラバーは日本が開国するとすぐ英国から渡航してきた。そして、長崎に貿易商社「グラバー商会」を設立した。グラバー商会は、海運と武器弾薬の販売を行うことを目的としていた。西南の雄藩が争って外国の武器を買い始めたので、グラバー商会はたちまち発展した。最大の取引相手は薩摩藩だった。そして、薩摩藩側の担当が五代友厚(当時の才助)だ。
五代才助は薩摩藩士だったが、開明的な考えと、実業家的手腕を持っていた。若い頃、長崎に遊学して砲術、測量、数学などを勉強した。1862年(文久2年)幕府が上海に船を派遣し、各藩から志望するものは同乗を許したので、五代も薩摩藩から派遣されてこれに参加した。このとき同じ船に長州藩の高杉晋作が乗っていた。五代と高杉はたちまち肝胆相照らして仲良くなった。五代は上海でドイツ製の船を買って帰った。高杉は上海の状況を見て、欧米列強の実力をまざまざと感じた。そしてこの時点で、高杉は攘夷論を放棄した。
グラバーは薩摩、長州、土佐など西南雄藩に接近した。そうした一環として、薩摩藩の五代友厚、森有礼、寺島宗則、長沢鼎らの海外留学、長州藩の井上馨、伊藤博文、山尾庸三、遠藤謹助、野村弥吉らの英国渡航の手引きもしている。
取引相手として最も重要視していた薩摩藩と英国との間に事件が起こった。文久2年の「生麦事件」だ。この事件は薩摩藩主の父、島津久光の行列の前を、数人の英国人が横切ったことから起こった。列の先頭にいた薩摩藩士が怒って、いきなり刀を抜いて英国人たちを殺傷した。この事態収拾をめぐって交渉は決裂、「薩英戦争」となった。
このとき必死になって、日英間の和平調停をしたのが五代友厚とグラバーだ。五代は上海で買った外国船の艦長として鹿児島湾内にいた。だが、英国艦隊が攻め込んできても彼は戦わなかった。そして英国艦隊の捕虜になった。このため、五代は薩摩藩士の風上にも置けない卑怯者だと非難された。五代は英国の捕虜として横浜に連行された。ところが、彼は横浜から脱走した。その後、長い亡命生活を送る。このとき手を貸したのがグラバーだ。
グラバーの怪人たる所以は、彼が決して一元的な発想方法を取らなかったことだ。薩摩藩と取引しながら、そのため本国の英国に対して結果として弓引くことになる場合もあったのだ。例えば薩摩藩は公然と英国を敵視し、英国人を斬殺し、戦争状態に入ったときもグラバーは薩摩藩と取引することを止めなかった。そして、薩摩藩から裏切り者と見られていた五代友厚を、あえて匿うようなこともする。
また、当時、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を結びつけた、薩長同盟を成立させた黒幕がグラバーだったのだ。このグラバーと一緒になって暗躍したのが土佐の坂本龍馬であり、龍馬率いる亀山社中だ。亀山社中は後の海援隊になる。薩長同盟が契機となって、日本の政治情勢はどんどん変わっていった。グラバーはその後も、英国公使館に出入りし、アーネスト・サトウとともに、パークス公使の補佐をする。地に着いた彼の意見は、どれほどパークスを助けたかわからない。
(参考資料)童門冬二「江戸の怪人たち」、白石一郎「異人館」