『I f 』21「徳川家基が急死しなければ、十一代家斉の時代はなかった」
徳川十一代将軍家斉といえば、在位50年間に1妻40妾を抱え50数人の子供
をつくりました。だが、将軍として求められる治世能力はほとんどなかった
といわれます。世継ぎを設けることは将軍の重要な役割の一つでしょうが、
本来彼は、将軍位に就ける立場ではなかったのです。
十代家治の世継・家基急死で転がり込んだ将軍の座
それは、彼にとっては思わぬ幸運に恵まれた故のものでした。十代将軍・
家治の世嗣・家基が急死したため、八代将軍吉宗の孫で一橋徳川家二代当主
の父・一橋治済(はるさだ/はるなり)と老中・田沼意次(おきつぐ)の画策で
将軍の座が転がり込んだというわけです。
世嗣・家基は、幼年期より聡明で文武両道に才能を見せ、成長するにつれ
政治にも関心を深めていました。それだけに父・家治の期待も大きかったの
です。そんな家基が1779年、鷹狩りの帰り、立ち寄った品川の東海寺で突然
体の不調を訴え、そのわずか3日後に急死してしまったのです。享年18(満
16歳没)。それまで元気に鷹狩りしていたわけですから、いかにもその死は
不自然で、不可解です。
家基の不可解な死に流れた毒殺説
そのため当時、毒殺説が囁かれました。首謀者として、家斉の父・一橋治
済や、家基が老中・田沼意次の幕政に批判的だったことから、田沼意次一
派の名も挙げられました。しかし、家治にほかに男子の子がいなかったた
め、父と田沼の裏工作通り家斉の世継ぎが決定。1781年、家斉は家治の養
子になって江戸城西の丸に入り、1786年の家治の急死を受け、1787年、15
歳で十一代将軍に就任したのです。徳川歴代将軍の中でも傑出した絶倫、
記録男・将軍家斉の誕生でした。