長野主膳(しゅぜん)は、幕末・維新史上の大怪物とも、大魔王とでもいうべき人物だ。幕末・維新の騒乱は井伊直弼の大老就任から始まったといっていいが、周到な計画を巡らせて井伊直弼を大老にしたのは井伊の参謀だった長野主膳であり、井伊が大老としてやったことのほぼすべて-紀州慶福(よしとみ)を将軍世子に決定したこと、勅許なく条約を結んだこと、安政の大獄を起こしたこと、和宮降嫁の運動に着手したことなども彼なのだ。突き詰めていえば、井伊はロボットで、陰でそれを操っていたのはこの長野主膳だったのだ。
長野主膳は伊勢国の出身といわれるが、その出自、幼・少年時代のことなどは、詳らかではない。長野の幼名は主馬(しゅめ)、諱は義言(よしとき)。長野の生没年は1815(文化12)~1862年(文久2年)。
長野は本居宣長系統の国学者で、和歌は速吟で、しかも上手だったという。そして、長野は“主義”の人ではなく、功業を目的とする人物だったといわれ、権謀に長けた策謀家というのが大方の評価だったようだ。
天保10年、三重県飯南郡滝野村(現在の飯高町)にやってきた長野主膳は、紀州新宮の領主、滝野次郎左衛門の妹、滝と恋におちた。そして天保12年、二人は結婚する。長野が27歳、滝が31歳のときのことだ。結婚すると二人は滝野村を出て、京に上り、それから近畿、東海道の各地を巡遊。そして、最後に江州伊吹山の麓の坂田郡志賀谷村の阿原家に落ち着き、「高尚館」という国学塾を開いた。坂田郡志賀谷村は水野土佐守忠央(ただなか)の知行地の一つで、阿原家はその代官だったといわれる。
長野は志賀谷村に落ち着くと、よく彦根にでかけた。やがて、弟子や和歌の友もできて数カ月の後、彼は井伊直弼に会うのだ。直弼は彦根井伊家十二代藩主の直中(なおなか)の十四番目の子だ。江戸時代の武家の三男以下ほど哀れなものはない。それは大名の家も同じだ。次男はお控えと称して、長男が万一若死にでもしたときのスペアとして相当な待遇をされるが、三男以下は他の大名や、家中の重臣の家に養子にいく以外には、わずかな捨扶持をもらって一生飼い殺しにされ、妻も持てない。妻を持たせて子供ができれば藩でその行く末までみなければならないからだ。女がほしければ妾をおくか、女中で間に合わせるよりほかない。妾や女中なら、構わなくてもいいからだ。惨めなものだ。
直弼も養子の口を探したが、なかなかなかった。遂に東本願寺別院、長浜の大通寺に養子に入ろうとして、ずいぶん運動したが、これも結局まとまらなかった。井伊家ではこんな境遇にある子供には年給米三百俵を与えて、飼い殺しにする定めになっている。直弼はこれを受けて生涯を埋もれ木で終わる覚悟を決め、三の丸の尾末町の屋敷を「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた。この家号でも分かるように、直弼の嗜好は国学にあったのだ。国学を仲立ちとして直弼と長野の関係は結ばれた。長野は埋木舎を訪問し語り合い、直弼と深い信頼を抱きあう師弟関係となった。長野、直弼ともに28歳のときのことだ。
長野と直弼が知り合いになってから3年余の弘化3年、直弼の兄で世子だった直元が江戸で死亡、直弼が世子となった。そして、直弼が世子となって4年10カ月目の嘉永3年、井伊家の当主、直弼の長兄直亮(なおあき)が病死。遂に直弼が当主となった。一時は自らの運命を諦め切っていた直弼に、花が咲いたのだ。直弼36歳のときのことだ。
直弼は長野を嘉永5年の春、知行百五十石の藩士として、藩校弘道館の国学教授とした。こうして長野は素性も知れない身の一介の浪人学者から、井伊家お抱えの国学者として百五十石を食む身分となったのだ。だが、人間の欲望には限りがない。この点は直弼も似た思いだったに違いない。長野は直弼を大老にしたいと考える。なぜなら井伊家はそうなれる家柄なのだから…。
大老は常置の職ではないが、平時でも置かれたことが多いうえに、こんな時局になっているのだから、置かれる可能性は大いにある。直弼は天性優れた才と度胸があるうえに、学問もしており、長い間逆境にあって下情に通じている。功名心の強い長野は、単に直弼のためだけにこう考えたのではない。直弼を大老として幕閣第一の権力者としたうえで、自分もまた幕府の要人になろうと考えていたのではないかと思われるのだ。
1853年(嘉永6年)、ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航、世情騒然となったその年、病気がちだった第十二代将軍家慶が死亡。そして十三代将軍に家慶の子、家定が就いた。だが、この家定は精神薄弱児的人物だったから、できるだけ早く将軍世子に賢明な人物を立て、その人物に将軍の政務を担ってもらおうとの動きがあった。こうして周知の通り、将軍世子に一橋慶喜を推す派と、紀州慶福(よしとみ)を推す派の二派が相争う状況となった。
冒頭に記した通り、長野は井伊大老が断行したすべてをいわば主導したのだが、最も衝撃的だったのはやはり「安政の大獄」だ。狂気のような大検挙があった翌々年、万延元年、「桜田門外の変」で直弼は惨殺される。直弼の後を継いだ直憲からは疎まれ、その翌々年、文久2年、直弼という絶大な後ろ楯を失ったダメージは大きく、藩内の空気が一変、長野に対する批判が爆発。長野は“奸悪”の徒として禁固され、牢内で処刑された。
(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」