福地源一郎(桜痴)は江戸城開城後の江戸で「江湖(こうこ)新聞」を創刊。同紙で新政府を批判し、明治時代初の言論弾圧事件の被害者となった。また、東京日日新聞の主筆として活躍、後には社長まで務めるなど、近代ジャーナリストの“草分け”的存在だ。その人間像は徳富蘇峰の人生に大きな影響を与えたといわれる。ただ、ジャーナリストとしての後半生は「御用記者」として、体制べったりの姿勢を維持したことには、彼自身マスコミ人の草分けであっただけに、悔悟の念に苛まれたのではないだろうか。生没年は1841(天保12年)~1906年(明治39年)。
福地源一郎は、長崎で医師、福地荀庵の息子として誕生。幼名は八十吉。号は桜痴。幼時は「神童」といわれ、数え年4歳で『三千経』『孝経』の素読を始めている。12歳で漢文「皇朝二十四孝」を書くという早熟を見込まれ、長崎のオランダ大通詞名村八右衛門の門下生になり、オランダ語を学ぶが、一年後にはもう通弁見習のポストを手に入れた。これが15~16歳のころのことだ。
福地が著した『新聞紙実歴』によれば、新聞なるものを知ったのは、このときだ。オランダ人は年々来航のたびに「風説書」というものを長崎奉行に提出する。海外事情の報告書で、これを大通詞の名村が和訳し、福地少年が筆記させられた。西洋諸国には新聞紙といって、毎日刊行して自国はむろん、外国のことを知らせる紙がある。カピタンは長崎・出島にいながら、それを呼んで重要なことだけを奉行所へ報告しているのだ-と名村は教えてくれ、そばにあったオランダの古新聞を与えてくれた。
福地には、自分にできぬことはないという自覚が固まり、他人がバカに見えて仕方がない。バカにしないまでも、あいつはバカだと思えば、つい顔に出、それが敵をつくる原因になる。1857年、海軍伝習所の軍艦頭取・矢田堀景蔵に従って江戸に出た。江戸で真っ先に覚えたのは吉原通いだった。有り金はたいて足りず、食い詰め、放浪したこともある。このときはさすがに閉口したようだが、結局懲りず、福地の吉原通いは一生続くのだ。後述するが「東京日日新聞」主筆時代が彼の絶頂期といえるが、朝出勤すると、論説原稿をさっと書き上げ、おもむろに腰を上げ吉原へ繰り込むといった調子だ。吉原通いの途中で新聞の仕事をしていくという方が表現としては正確だったようだ。
以後、2年ほど英国の学問や英語を森山栄之助の下で学んだ。そして外国奉行支配通弁御用雇として、翻訳の仕事に従事する。1861年、1865年には幕府の使節としてヨーロッパに赴き、西洋世界を視察した。ロンドン、パリで刊行されている新聞を見て深い関心を寄せた。パリでは本来の通弁の仕事ではなく、国際法の勉強をするはずだったが、国際法以前の、ヨーロッパ各国通史を知らないし、公用語のフランス語を知らない。そんなわけでフランス語の初歩から学ぶことになった。率直にフランス語修得を喜び、帰国すると幕府は崩壊寸前、そして遂に幕府は倒れた。
福地は江戸城開城後の1868年、江戸で「江湖新聞」を創刊した。彰義隊が上野で敗れた後、同紙に「強弱論」を掲載し、「ええじゃないか、というが、幕府側が倒れて、薩長を中心とした幕府が生まれただけだ」と薩長の横暴を厳しく批判。これが新政府の怒りを買い、新聞は発禁処分。福地は逮捕されたが、木戸孝允のとりなしで無罪放免とされた。明治時代初の言論弾圧事件だ。静岡でほとぼりの冷めるのを待ち、また東京に出た。戯作と翻訳、そして吉原通いの日々だ。福地は吉原で酒は全く呑まないのだ。芸者を呼んでも三味線は弾かせず、おもしろくないと、3日も4日も待合で外国語の本を読んでいる-といった具合だ。
1870年、大蔵省に入り翌年、岩倉使節団の一等書記官として各国を訪れた。帰国後の1871年、政府系の東京日日新聞に入社。主筆を務め、ジャーナリストとして筆名を上げ、部数を飛躍的に伸ばした1874年(明治7年)から、西南戦争の戦況報道を経て、1881年(明治14年)までが福地の全盛期だった。後には社長も務めた。また、東京府府会議長も務めて政界にも進出した。
1889年(明治22年)に完成した東京の歌舞伎座は、福地が全面的な構想を描いたもので、座主のポストには福地が就くはずだった。しかし、それを維持するだけの金がなかったのだ。これは不幸だった。座主の椅子を手放してからは、単なる一作者として脚本を書いた。多芸多才人の数奇な人生だった。
(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、三好徹「近代ジャーナリスト列伝」、司馬遼太郎「峠」、小島直記「無冠の男」