河上彦斎 佐久間象山を殺害した、筋金入りの攘夷派の殺し屋

河上彦斎 佐久間象山を殺害した、筋金入りの攘夷派の殺し屋

 河上彦斎(かわかみげんさい)は肥後熊本藩士で、幕末の英才・佐久間象山を殺害したことで知られる、維新史の刺客の中でも屈指の人物だった。幕末・維新の時代に“人斬り”という異名を冠して呼ばれた人物には、概して無学の者が多かった。しかし、河上彦斎は一通りの学問はあった。上手ではないが、漢文を書き、和歌も詠んでいる。したがって、彼の場合、誰かの示唆や指示のもとにターゲットとする人物を殺害した単なる“殺し屋”というより、理論の裏打ちがあるように思える。また、名利の念は全くないのが特徴だ。彦斎の生没年は1834(天保5)~1872年(明治4年)。

 彦斎は、肥後熊本藩士小森貞助、母わかの子として熊本城下神馬借町に生まれた。幼いとき同藩の河上源兵衛の養子となった。諱は玄明(はるあきら)。通称は彦次郎、のち彦斎。16歳のとき、細川家の花畑邸のお掃除坊主となり、後に江戸に勤番して家老付きの坊主となった。彦斎と名乗るのはこのためだ。

 彼は儒学を轟木武兵衛(とどろきぶへい)に学び、兵学を吉田松陰の親友、宮部鼎蔵に学び、国学を林桜園について学んだ。桜園は熊本の学者だ。桜園の原道館の同門に、後に「神風蓮の乱」(1876年)を起こした太田黒伴雄や加屋栄太らがいて親交があった。儒学にも通じていたが、兵学者でもあった。国学についてはとくに精通しており、国粋主義者で、敬神の念が厚かった。

 こんな彦斎が、ペリー来航以来の時勢に心を揺さぶられ、尊王攘夷の思想を持つようになったのは、最も自然なことだった。彼は、いわゆる“肥後もっこす”的性格だったから、その思想は牢固たる信念になって、終生決して動かないのだ。このことが、後の彼の運命を決めることになるのだが…。

 文久元年、藩主の名代として上京した長岡護美に随行。このとき随従員として彦斎とともに上京したメンバーに肥後勤王党の轟武兵衛(儒学者)、宮部鼎蔵らがいた。彦斎はそれまでの国老付坊主という職を免ぜられて蓄髪を許された。その後、彦斎は滞京して、熊本藩選抜の親兵になった。

 文久3年、30歳のとき、彦斎は熊本藩親兵選抜で宮部鼎蔵らと同格の幹部に推された。環境が異なれば、この後、宮部鼎蔵らに近い生き方をしてもおかしくなかったのだ。ところが、彼はこの後、密かに“人斬り”としてその惨劇を演じることになる。

 元治元年(1864年)7月11日、愛馬に跨った松代藩士・佐久間象山が従者2人、馬丁2人を従えて京都・三条通木屋町を通りかかったとき、通行人に紛れていた刺客2名が飛び出し、馬上の象山に斬りかかった。しかし、この一刀は象山が馬上にあったため、傷は浅かった。ただ、この後、象山には不運な偶然が重なった。この急襲を受けて象山は馬腹を蹴って、この場を逃れようとした。

ところが、馬丁の1人が刺客に気付かず、馬が狂奔したのだとみて、大手を広げて前に立ちふさがったのだ。このために馬が棒立ちになったところを、追いすがる刺客の1人が、躍り上がって斬りつけてきた。たまらず象山は鞍上から、もんどり打って地に落ちた。さらに刺客は隙を与えず、一、二刀あびせると、混乱する場に紛れ、姿を消した。白昼の凶行だった。

この刺客こそ、彦斎だった。手馴れたものだった。ただ急襲されたにせよ、馬丁が事の成り行きをつぶさに見ていたなら、象山は最初のひと太刀だけで、浅い傷を負っただけで逃れていただろう。しかし、こうして不幸にも幕末、一貫して開国論を唱え続け、吉田松陰らに影響を与えた天才、佐久間象山は暗殺されてしまった。

彦斎はこの後、藩の仲間と別れ長州軍に身を投じる。象山暗殺後の8日後の7月19日、「八月十八日の政変」(1863年)で京都を追放された長州藩が、巻き返しを企図して起こした「禁門の変」(1864年)で、彦斎は長州家老の国司信濃隊に入って戦っている。しかし、圧倒的兵力差の前に敗れ去った長州軍はバラバラに撤退。彦斎も国司信濃と別れ、しばらく鳥取藩邸に身を隠している。

第二次征長戦(四境戦争)では、彦斎は芸州口、石州口を守り戦っている。が、幕府軍で肥後熊本藩が、小倉で長州軍と対峙したと聞き、怒り、悲しみ、思い悩んだ。そして、桂小五郎や高杉晋作らが猛反対する中、長州軍を抜け、一人熊本へ帰っていった。時勢に気付いていない藩首脳たちを説得するためだった。

 慶応2年(1866年)2月、彦斎は熊本へ帰ったところを脱藩罪で捕らえられ、投獄された。説得どころか、佐幕派の藩首脳には全く聞き入れられなかった。しかし、彦斎が投獄されていた一年の間に大政奉還、戊辰戦争があり、幕府側は朝敵となった。そのため明治2年(1869年)2月には投獄されていた勤王派志士たちとともに釈放され、藩の役員に取り立てられた。彦斎は外交係に任命され、まもなく名を高田(こうだ)源兵衛と改め、肥後熊本藩の藩命を受けて東北地方へ遊説に出かけている。こうして、名うての人斬りも時代に迎合して…といいたいところだが、彦斎の場合、筋金入りの攘夷家で、維新後の明治政府の開化政策にも順応することができなかった。そして、遂に政府転覆を企てたかどで、明治4年(1871年)12月4日、38歳で断首された。

 彦斎の容姿は身長5尺前後(150cm程度)と小柄で色白だったため、一見女性のようだったという。剣は、伯香流居合を修行したという説もあるが、我流で片手抜刀の達人だったと伝えられている。また、“人斬り”の異名を持ちながら、彦斎が斬ったとはっきり分かっているのは佐久間象山だけで、あとは定かではない。 

(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち 河上彦斎」、平尾道雄「維新暗殺秘録」、奈良本辰也・綱淵謙錠「日本史探訪⑲開国か攘夷か 和魂洋才、開国論の兵学者 佐久間象山」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 4」

 

 

 

 

 

 

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