「東海道五十三次」の名所風景画で知られる歌川広重。彼の作品はヨーロッパやアメリカでは大胆な構図などとともに青色、とくに藍色の美しさで評価が高い。この鮮やかな青を欧米では「ジャパンブルー」あるいは「ヒロシゲブルー」とも呼ばれて、19世紀後半のフランス印象派の画家たちや、アールヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響を与え、当時ジャポニズムの流行を生んだ要因の一つともされている。
歌川広重は、江戸・八洲河岸(八重洲河岸)の火消し同心の安藤家に生まれた。幼名は徳太郎。長じて重右衛門といった。13歳で家督を継ぎ、その後、27歳で同心の役職を退くまで画家と公務の両立を果たしていたといわれる。「安藤広重」の名で紹介されることがあるが、この名で残された作品は見当たらない。画人としては歌川派の歌川広重が正当だ。広重の生没年は1797(寛政9)~1858年(安政5年)。
広重は当初、初代歌川豊国に弟子入りを請うたが、門弟が多く叶わなかった。そこで、15歳のとき同門の歌川豊広に入門した。翌年、師・豊広から「広」の一字を受け、「広重」と名乗った。
広重の入門は叶わなかったが、初代歌川豊国が中心となって発展させた浮世絵師の最大勢力・歌川派で、幕末に活躍した三代豊国、国芳、そして広重は歌川三羽烏と称された。それぞれ、豊国は似顔絵、国芳は武者絵、広重は名所絵を得意とし、評価されていた。
そんな名所絵・広重のきっかけとなったのが、「東都名所」だ。1831年(天保2年)、葛飾北斎が「富嶽三十六景」を発刊したとき、広重はその「東都名所」を発表し、風景画家としての評価を受けたのだ。このとき北斎72歳、広重は35歳だった。翌年、幕府の八朔の御馬進献の儀式図調整のため、広重はその行列に参加して上洛。東海道を往復した際に、その印象を克明に写生。それが、翌年シリーズとして発表する「東海道五十三次絵」に生かされた。
この「東海道五十三次絵」は遠近法が用いられ、風や雨を感じさせる立体的な描写など、絵そのものの良さに加えて、当時の人々が憧れた外の世界を垣間見る手段としても大変好評を博した。
当時、広重は教えを請うため、尊敬していた北斎のもとをよく訪れていたといわれる。40歳近くも年の離れた先輩、北斎老人に広重は何を学ぼうとしたのだろうか。技法だったのか、何か精神的なものだったのか。
その後、作品「東海道五十三次」で人気を得た広重は、風景・名所のシリーズものを刊行する。「近江八景」「京都名所之内」「江戸近郊八景」などを次々と発表。60歳で制作を開始した「名所江戸八景」を完成させた1858年(安政5年)、62歳で永眠したと伝えられる。死因は、当時大流行したコレラといわれる。
広重の作品はヨーロッパやアメリカで、その大胆な構図と、とくにブルーの美しさで評価が高い。色鮮やかな青は「ジャパンブルー」とも「ヒロシゲブルー」とも呼ばれ、19世紀フランス印象派の画家たちや、アール・ヌーヴォーの芸術家たちに大きな影響を与えた。
(参考資料)吉田漱「浮世絵の基礎知識」、藤懸静也「増訂 浮世絵」、藤懸静也「文化文政美人風俗浮世絵集」