江戸時代まで公式には弘文天皇は存在しなかった。あるいは、削除されていた。明治政府により「弘文天皇」と追号されたのは1870年(明治3年)のことだ。しかし、そのおよそ1200年前、大友皇子が671~672年のわずか2年弱だが、天智天皇崩御後、近江朝廷にあって実権を握り、事実上皇位にあったとする見解が今日、有力視されている。生没年は648(大化4)~672年(天智天皇11年)。
天智天皇の崩御後、672年、皇位をめぐるわが国古代最大の内乱「壬申の乱」が起こり、大海人皇子率いる吉野側が勝利したため、その即位が疑問視され、在位を認めない見解もある。少なくとも「日本書紀」は弘文天皇紀を記しておらず、同天皇を一代と見做していない。これは同紀の編纂にあたった舎人親王が父、天武天皇による皇位簒奪の印象を拭い去ろうと大友皇子即位を省いたとされている。
それでも、事実上大友皇子が皇位を継いでいたとする様々な史料が残っている。「水鏡」や「扶桑略記」などでは、天智天皇崩御後の二日後に皇位を継いだとされている。また、徳川光圀も「大日本史」でほぼ同様の見方をしている。
弘文天皇は天智天皇の第一皇子で、名は大友皇子、伊賀皇子。母は伊賀采女宅子娘(いがのうねめ・やかこのいらつめ)。日本最古の漢詩集「懐風藻」によると、皇子は風貌たくましく、頭脳明晰だったとされている。博識で文武両道を究め、詩文にも優れていたと伝えられている。皇妃は大海人皇子と額田王(ぬかだのおおきみ)との間に生まれた十市(とおち)皇女。皇女には葛野(かどの)皇子、与多王(よたのみこ)の子があった。
天智天皇には8人の妃がいたが、皇子が誕生したのは4人。だが、1人は8歳で亡くなり、残る3人のうちの最年長が大友皇子だった。しかし、大友皇子が皇位を継ぐことは、当時の慣習からいえば困難だった。皇位を継承できる資格は、まず第一に皇族出身の皇后・皇妃を母とする皇子であり、第二は大臣の娘で后妃となっているうちに生まれた皇子でなければならなかった。この習慣は蘇我氏がつくりだしたものだ。だが、大友皇子の母は伊賀国山田郡の国造家の娘だ。他の2人の皇子も同じような身分の母から生まれていた。慣例に従えば、大友皇子は皇位継承の資格がなかったのだ。
にもかかわらず、天智天皇はこの大友皇子に深い愛情を注ぎ、皇位を託そうと思うようになった。大友皇子が聡明で、ひとかどの人物だったからだ。ところが、天智天皇には皇太子として弟の大海人皇子がいた。いうまでもなく、皇太子は次期皇位継承者のナンバー1だ。たとえわが子とはいえ、即座には後継者にできない。それには周囲の承認がいる。
そこで671年、大友皇子は太政大臣に任ぜられた。太政大臣が官職として正式に登場するのはこれが初めてで、大友皇子に権威をつけさせるため、新しいポストを作ってまで大友を政治の中枢に置いたのだ。大友23歳のことだ。そしてこの前後に、障害となる皇太子の大海人皇子の地位を奪い、政界から排除する方向にあったとみられる。このときの大海人皇子の推定年齢は36歳だ。
こうして本来ならば最有力の皇位継承者である大海人皇子は働き盛りの年齢で、地位を奪われ、近江王朝の中で孤立し、大友皇子と敵対する立場に追いやられたのだ。大海人皇子は何の失政・失態を犯したわけでもないのに、理由もなく失脚させられたわけだ。
天智天皇のこうした強引なやり方に反感を抱き、また非情な権力者、天智天皇を快く思わない連中は、当然ながら大海人皇子を支持したのではないだろうか。それが天智天皇自身の死後、朝廷から離反、多くの親・大海人皇子勢力をつくりだしていくことにつながったのではないか。そして、その決着点が「壬申の乱」での近江朝の敗北だったのだ。
(参考資料)豊田有恒「大友皇子東下り」、黒岩重吾「天の川の太陽」、井沢元彦「日本史の叛逆者 私説・壬申の乱」、神一行編「飛鳥時代の謎」 、遠山美都男「中大兄皇子」