奈良屋茂左衛門・・・一代で三井高利の2倍の資産を築いた元禄期の豪商

 奈良屋茂左衛門というと、彼がまだ商人としては駆け出しの頃、日光東照宮の修復工事にからんで、町奉行の権力をバックに利用し、大店の木曽檜問屋を巧妙な策略にかけ、ひとかどの材木商に伸し上がったという逸話がある。この話の真偽は定かではないが、商人にとって度胸や度量の大きさが必要だということが痛感させられる。

 奈良屋茂左衛門の生涯は、同時代の豪商、紀伊國屋文左衛門と同様、ほとんど定かではない。だが、『江戸真砂』はじめ各種の史料を総合すると、およそ次のようなことが分かる。茂左衛門は江戸霊岸島の裏長屋に住む車力の子供だといわれ、また材木の小揚げ人足の子供という説もあるが、はっきりしない。

生来の利発者で、そのうえ字も上手だったので、宇野という材木屋に雇われ勤めていたが、28歳のとき独立してわずかばかりの丸太・竹などを置く小さな店を開いた。ちょうどそんなとき、1683年(天和3年)、日光大地震があり、東照宮修復工事と関連して御用檜の入札があった。

 この入札で茂左衛門は見事に一大出世のきっかけを掴む。当時、江戸茅場町に柏木という木曽檜問屋があって、御用木の規格に合うような檜の良材をほとんど独占していたので、応札者はみな柏木家を頼って相場の倍ほどの値段を入れたが、茂左衛門一人は大胆にもその半値で入札した。当然、札は茂左衛門に落ちる。彼は翌日、できる限り立派に衣服を整えて柏木家に行き、事情を話して檜材を分けてくれるように頼むが、柏木家の方は、材木の手持ちがないと、彼の頼みを断る。

 ここからが度胸と知恵のみせどころだ。柏木家の出方を予期していた茂左衛門はさっそく町奉行所に出頭。柏木家が檜材を買い占めていて、日光修復の御用木にとワケを話して頼んでも、品物がないといって分けてくれないので、何とかしてほしい-と訴え出たのだ。奉行所の召し出しにはゼロ回答というわけにいかず、柏木家はようやく20~30本の檜材を渡した。

しかし、それくらいではどうにもならないことから、茂左衛門は再び奉行所に行き、町役人を案内して、かねがね調べておいた柏木家の貯木場に行き、そこにあるだけの檜材に全部刻印を打ってしまった。その数が御用材入用分よりはるかに多かったので、不届き千万というので柏木家は闕所(家財没収)のうえ、主人・太左衛門は伊豆の新島へ、手代は三宅島・神津島へそれぞれ流罪になった。
こうして、まんまと茂左衛門の思惑通りの流れになって、彼は出世の糸口を掴んだのだ。彼はその檜材で無事、日光御用を務め、それでもなお残木が金高にして2万両ほどあったという。まさに、度胸と知恵あるいは、人間的な器量の大きさがこうした幸運を呼び込んだといえよう。

 柏木太左衛門は7年後に許されて島から帰るが、自分を陥れた茂左衛門が盛大にやっているのを見て、よほど悔しい思いをしたのか、恨みに思ってのことか、食を断って死んでしまった。そのため日光御用材の代金も受取人がなく、自然に茂左衛門のものとなり、ますます奈良屋は盛んになったという。
 この話の真偽のほどは定かではない。ただ、元禄期に奈良屋茂左衛門が、名前の知られた大材木商になっていたことは、史実にある。徳川林政史研究所には、茂左衛門が津田平吉を願い人に立てて、尾張藩に木曽檜材都合3100本を金2万3146両2分余で払い下げてくれるよう願い出た史料が残っている。

 茂左衛門は1714年(正徳4年)に死ぬが、一代で築いた資産は総額13万2530両と、9000両ほどの道具類だ。これは銀に換算すると約9100貫目となり、単純比較すると、三井高利の遺産の2倍を上回る巨大な金額となる。ただ、この間に通貨改鋳があるので、正確な比較は難しい。
 茂左衛門はこれを妻・総領・二男・親類・家来出入りの者の五者に配分している。そして遺言状の中で、たとえ手代がどんなに勧めても、商売事や公儀事には一切手を出さぬよう、また店賃や金利がかなりあるはずだから、その半分は火事などの非常に備え、残る半分で無駄を省いて質素に生活するように-と指示している。

しかし、『奈良茂旧記』によると、この指示にもかかわらず、この巨額の遺産はその子供と孫との二代でほぼ使い果たし、父から譲られた1万5000両もする屋敷も手放している。あの世の茂左衛門にとっては、不肖の子供たちよ-と、歯ぎしりする思いだったに違いない。皮肉にも、この屋敷を買い取ったのは三井八郎右衛門だった。

(参考資料)大石慎三郎「徳川吉宗とその時代」

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