北条泰時は鎌倉幕府の第三代執権で、日本における最初の武家法典『御成敗式目』を制定した人物だ。これによって、武家社会に求められた、鎌倉幕府のより統一的な新しい基本法典が完成したのだ。
『御成敗式目』は北条泰時が独善的に決めたものではない。京都の法律家に依頼して、律令などの貴族の法の要点を書き出してもらい、彼自身がその内容を把握。そのうえで彼は『道理』(武士社会の健全な常識)を基準とし、先例を取り入れながら、評定衆たちと案を練り、編集を進め、まとめあげたものだ。「名執権」といわれた泰時ならではの地道な作業だ。1232年(貞永元年)のことだ。
では、なぜ泰時はこんな法の制定に乗り出したのか。それは、承久の乱以降、新たに任命された地頭の行動や収入を巡って各地で盛んに紛争が起きており、また集団指導体制を行うにあたり、抽象的指導理念が必要となったからだ。紛争解決のためには頼朝時代の「先例」を基準としたが、先例にも限りがあり、また多くが以前とは条件が変化していたのだ。
この『御成敗式目』、はじめは『式条』『式目』と呼ばれていたが、徐々に変化し、裁判の基準としての意味で『御成敗式目』と呼ばれるようになった。完成にあたって泰時は、六波羅探題として京都にいた弟の重時に送った2通の手紙の中で、式目の目的について次のように書いている。
多くの裁判で同じような訴えでも強い者が勝ち、弱い者が負ける不公平を無くし、身分の高下にかかわらず、えこひいき無く公正な裁判をする基準として作ったのがこの式目である。京都辺りでは、ものも知らぬあずまえびすどもが何を言うかと笑う人があるかも知れないし、またその基準としてはすでに立派な律令があるではないかと反問されるかもしれない。しかし、田舎では律令の法に通じている者など万人に一人もいないのが実情である。こんな状態なのに律令の規定を適用して処罰したりするのは、まるで獣を罠にかけるようなものだ。
この『式目』は漢字も知らぬ、こうした地方武士のために作られた法律であり、従者は主人に忠を尽くし、子は親に孝を尽くすように、人の心の正直を尊び、曲がったのを捨てて、土民が安心して暮らせるように、というごく平凡な『道理』に基づいたものなのだ-と。
北条泰時はこの「道理」という言葉が一番好きだった。『沙石集』という鎌倉時代の説話などによると、彼は、道理ほどおもしろいものはない、と言って、人が道理の話をすると、涙を流して喜んだという。「道理」という言葉には、かなり広い意味がある。人間の身につけるべき本来的な道徳から、守るべき法律、原則に至るまでを含んでいるとみていい。父、北条義時もくだけたエピソードが伝えられていない真面目人間だったようだが、その息子は父に輪をかけたキマジメ青年だった。
北条泰時は鎌倉幕府第二代執権・北条義時の長男。生没年は1183(寿永2年)~1242年(仁治3年)。幼名は金剛、のち頼時、泰時、春時、観阿、別名は江間太郎。1194年(建久5年)、13歳で元服。鎌倉幕府初代将軍源頼朝が烏帽子親となり、頼朝の頼を賜って頼時と名乗った。のち泰時に改名した。頼朝の命により元服と同時に三浦義澄の孫娘との婚約が決められ、8年後の1202年(建仁2年)に三浦義村の娘(矢部禅尼)を正室に迎える。翌年、嫡男時氏が生まれるが、のちに三浦の娘とは離別し、安保実員の娘を継室に迎えている。1211年(建暦元年)、修理亮に補任。この時点で北条氏の嫡男は異母弟で正室の子、次郎朝時だったが、朝時が鎌倉幕府第三代将軍・実朝の怒りを買って失脚したため、庶長子だった泰時が嫡男とされた。
1213年(建暦3年)の和田合戦では父・義時とともに和田義盛を滅ぼし、戦功により陸奥遠田郡の地頭職に任じられた。1218年(建保6年)には父から侍所の別当に任じられた。1219年(承久元年)には従五位上、駿河守に叙任、任官された。1221(承久3年)の「承久の乱」では、39歳の泰時は幕府軍の総大将として上洛し、後鳥羽上皇方の倒幕軍を破って京へ入った。戦後、新たに都に設置された六波羅探題北方として就任し、同じく南方にはともに大将軍として上洛した叔父の北条時房が就任した。それ以降、京に留まって朝廷の監視、乱後の処理や畿内近国以西の御家人武士の統括にあたった。
(参考資料)永井路子「にっぽん亭主五十人史」、海音寺潮五郎「覇者の条件」