五代友厚は大阪株式取引所、大阪商法会議所などを設立した、大阪財界の父といってよい働きをした。渋沢栄一が関東で商工会議所や株式取引所を設立して、多くの事業を生み育てていったのと並び称された。
五代は天保6年(1835)12月26日、薩摩国鹿児島の城下町で生まれた。幼名は才助。五代家の先祖は島津18騎の一人で“銀獅子”と称していた。その五代家の五代目、秀堯と妻やす子との間に生まれた次男が、後の友厚だった。兄徳夫、姉広子、妹信子といった兄弟とともに生まれ育った家は松林の中という静かな環境で、父は儒学者として知られ、藩内にあっては町奉行を務めていた。ただでさえ質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、8歳になると児童院の学塾に通い、12歳で聖堂に進学して文武両道を学んだ。
14歳になった時、琉球公益の係を兼ねていた父親が、帰宅すると奇妙な地図を広げて友厚を手招いた。それは、藩主がポルトガル人から入手した輿地図だった。父が兄の徳夫に声をかけなかったのは、兄がコチコチの保守主義者で、外国の話をすると真剣に怒り出すからだった。その点、友厚は早くから異国の文物に興味を持って、これが世界地図だと知ると、食い入るように眺めていた。
そして、その地図には薩摩はおろか日本も載っていないことを教えられる。それなのに、国内ではやれ薩摩だ、やれ長州だといって互いに相争っている。どうして力を一つにして外国に負けないような国力と技術力をつくろうとしないのだろうか-と疑問を持つ。
藩主が父に申し付けたこの地図の模写を、友厚は一人で引き受け二枚分を一気に筆写した。そして一通を藩主に献上して、残る一枚を自室の壁に掲げた。地球は丸いというので、直径2尺(60・)ばかりに球体を作って、そこに世界地図を貼り付けた。そしてそれに彩色をした。球体にしてみると、さらに世界の様子がよく分かった。
16歳になった友厚は藩候に建白書を出して、海運の隆盛を図って、学生を遊学させるべしと主張した。その願いが聞き届けられ、友厚は長崎出張を命じられた。当時幕府は長崎に海軍伝習所をつくって、オランダ人教官を雇って若い武士たちに航海術を学ばせようとした。そこには幕臣勝海舟、榎本武揚、佐賀の大隈重信、土佐の後藤象二郎、坂本龍馬、岩崎弥太郎、長州の高杉晋作、井上馨、紀州の陸奥宗光、福井の由利公正など各藩の英才が集まっていた。これらは後に明治を背負って立つ傑物となった人たちで、彼らは藩の枠を越えて交友を持った。友厚の青春の舞台はこの長崎だった。
慶応2年(1866)2月、イギリス、ベルギー、ドイツ、オランダを歴訪して、各種の工場や病院などの施設を視察し帰国した五代は、産業振興と富国強兵のニューリーダーとなった。そして御納戸奉行格に任じられて、藩の産業経済の中枢に位置する身となった。まだ32歳の時のことだ。明治維新が成立すると、彼は西郷隆盛や大久保利通とともに新政府の参与に任じられた。薩摩が実行してきた産業立国と富国強兵策を、今度は中央政府にあって断行することとなり、大いに意欲を燃やした。
明治2年、五代は大久保と協議のうえ実業の道を進むことを伝え大阪へと向かう。大富豪、山中善右衛門(鴻池)、殿村平右衛門、広岡久右衛門たちを集めて、まず銀行の前身ともいうべき為替会社と通商会社を大阪に設立することを要望した。ちょうどその頃、大蔵省をやめた渋沢栄一も銀行をつくって、実業界のリーダーとして出発している。その後、五代は鉱山業、紡績業などに乗り出したほか、天和銅山(奈良)、半田銅山(岩手)など4銅山を経営、たちまち鉱山王となった。
五代は堂島米商会所の組織化、大阪株式取引所の開設、大阪商法会議所の創設などに次々取り組み、商法会議所が生まれると彼は初代会頭に推された。現在の商工会議所の前身がこれだ。明治13年、彼は現大阪市立大学の前身の大阪商業講習所を設立し、商家の子弟に、近代的な経営学を教えることにした。続いて大阪製銅所、馬車鉄道、関西貿易社、共同運輸会社、阪堺鉄道、大阪商船などの事業化に参画して、さながら会社づくりの神様の如く、多くの経済組織と企業づくりを行った。
明治18年6月、糖尿病を患った五代は、9月25日、東京の自邸で永眠した。51歳だった。商業家というよりも商工業界のリーダーとして関西財界の基礎づくりに功績を残した五代は、いまも鹿児島と大阪商工会議所にその銅像が遺されている。
(参考資料)邦光史郎「豪商物語」