二宮忠八は明治時代の航空機の先駆的研究者で、実際の飛行成功の偉業はライト兄弟に譲ったが、飛行機の設計はこの二宮忠八が早かった。あくまでも仮定の話だが、軍部が忠八の上申書を受理し、早くに航空機開発・研究に着手していたら、その後の日本の戦備、とくに空軍の力は当時でもより進んだものになり、違った歴史を刻み込んでいたかも知れない。忠八の生没年は1866(慶応2)~1936年(昭和11年)。
二宮忠八は伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(現在の愛媛県八幡浜市矢野町)で商家の四男として生まれた。
忠八は21歳のとき、丸亀の歩兵第12連隊に看護卒として入営。1889年(明治22年)の演習中に鳥が飛ぶのを見て飛行機の研究を志し、ゴム動力による紙製模型飛行機などを試作。そして、このゴム動力の鳥型飛行器の飛行実験に成功したことで、「人間が鳥のように飛ぶことができるかも知れない」という思いは確信に変わった。
忠八はさらに2年間研究を積み重ね、1893年、人を乗せて飛ぶことができる両翼の長さが2・の玉虫型飛行器を完成させた。残る問題は飛行するための動力だけになった。ただ、この動力の確保が彼にとって極めて“重い”課題として残された。そして、思いもよらぬ“挫折”につながっていくのだ。
1894年、日清戦争が勃発。忠八もこの戦争に従軍する。従軍中、飛行機の必要性を痛感した彼は、設計図をつけて飛行機研究の重要性を述べた上申書を3度にわたって提出したが、ことごとく却下された。失望した彼は1898年、軍を除隊した。資力を蓄えてから独力で飛行機を完成させるためだ。
就職先として選んだのが製薬会社だ。忠八は大阪の大日本製薬⑭に入社。商才に長けたアイデアマンだった彼は10年足らずで大阪を代表する実業家の一人となった。こうして資金もできた彼は1908年、京都府八幡町に作業所を構え、飛行機の製作を再開した。
そして、飛行機の枠組みもでき上がり、動力としてオートバイ用のエンジンを取り寄せるだけとなっていた1909年のある朝、忠八の人生は暗転する。新聞に掲載されていた記事で、1903年のライト兄弟の有人飛行実験の成功を知ったからだ。(当時、このニュースはすぐには伝わらず、6年ほど遅れてようやく新聞に掲載された。)少年時代からの夢、「世界で最初に自分の作った飛行器が空を飛ぶ」ことは達成直前で、遂に果たせず、破れた。呆然自失の彼は完成間近の飛行器を壊し、以後、二度と飛行器を作ることはなかった。
1915年(大正4年)、京都府八幡町(現在の八幡市)に飛行神社を造営、航空殉難者の霊を祀った。
*文中、飛行機を「飛行器」と「器」の文字を使っているのは忠八が、自分が作るものは飛行器とこだわって呼称しているため、それを尊重、そのまま使用しています。
(参考資料)吉村昭「虹の翼」