中江藤樹 身分の上下を超えた平等思想を説いた「近江聖人」
中江藤樹は江戸初期の儒学者で、わが国の陽明学の祖だ。藤樹が説いたのは、身分の上下を超えた平等思想に特徴があり、武士だけでなく商・工人まで広く浸透し、没後、彼は「近江聖人」と称えられた。代表的門人に熊沢蕃山、淵岡山、中川謙叔がいる。生没年は1608(慶長13年)~1648年(慶安元年)。
中江藤樹は近江国小川村(現在の滋賀県高島市安曇川町上小川)で、農業を営む中江吉次の長男として生まれた。字は原(はじめ)、諱は惟命(これなが)、通称は与右衛門(よえもん)。別号は珂軒(もくけん)、顧軒(こけん)。9歳のとき伯耆国(現在の鳥取県)米子藩主加藤家の150石取りの武士、祖父中江吉長の養子となり、米子に赴く。1617年(元和2年)、米子藩主加藤貞泰が伊予大洲藩(現在の愛媛県)に国替えとなり、藤樹は祖父母とともに移住する。1622年(元和8年)、祖父が亡くなり、藤樹は家督100石を相続する。
1632年(寛永9年)、郷里の近江に帰省し、母に伊予での同居を勧めるが、拒否される。藤樹は学者として藩内の武士たちに「孝を尽くせ」と教えながら、自分が近江の琵琶湖畔に母親を一人残していることに悩み続けた。そのため、思い悩んだ藤樹は1634年(寛永11年)、27歳で母への孝行と健康上の理由により、藩に対し辞職願いを提出するが、拒絶される。そのため脱藩し、京に潜伏の後、郷里の小川村に戻った。そこで母に仕えつつ、私塾を開き学問と教育に励んだ。1637年(寛永14年)、藤樹は伊勢亀山藩士・高橋小平太の娘、久と結婚する。藤樹の居宅に藤の老樹があったことから、門下生から“藤樹先生”と呼ばれるようになる。塾の名は「藤樹書院」という。藤樹はやがて朱子学に傾倒するが、次第に陽明学の影響を受け、「格物致知論」を究明するようになる。
「格物致知」を朱子学、陽明学、藤樹のそれぞれの流派に沿って読み下すと次のような違いがある。
朱子学-物に格(いた)り知を致(いた)す
陽明学-物を格(ただ)し知を致(いた)す
藤 樹-物を格(ただ)し知に致(いた)る
1646年(正保3年)、妻久が死去。翌年、近江大溝藩士・別所友武の娘、布里と再婚する。1648年(慶安元年)、藤樹が亡くなる半年前、郷里の小川村に「藤樹書院」を開き、門人の教育拠点とした。江戸時代の「士農工商」という厳然とした階級社会にあって、その説くところは画期的な、身分の上下を超えた平等思想にあった。そのため、その思想は武士だけでなく、商・工人まで広く浸透した。没後、藤樹先生の遺徳を称えて、「近江聖人」と呼ばれた。
中江藤樹には様々な著作があるが、そのうち1640年(寛永17年)に著した『翁問答(おきなもんどう)』にある言葉を紹介しよう。
○「父母の恩徳は天よりもたかく、海よりもふかし」
父母から受けた恵みの大きさはとても推し量ることができない。どんな父母もわが子を大きく立派に育てるために、あらゆる苦労を惜しまないものだ。ただ、その苦労をわが子に語ることはしないので、そのことが分からないのだ。
○「それ学問は心のけがれを清め、身のおこなひをよくするを本実とす」
本来、学問とは心の中の穢れを清めることと、日々の行いを正しくすることにある。高度な知識を手に入れることが学問だと信じている人たちからすれば、奇異に思うかも知れないが、そのような知識の詰め込みのために、かえって高慢の心に深く染まっている人が多い。
○「人間はみな善ばかりにして、悪なき本来の面目をよく観念すべし」
私たちは姿かたちや社会的地位、財産の多寡などから、その人を評価してしまう習癖がある。しかし、すべての人間は明徳という、金銀珠玉よりもなお優れた最高の宝を身につけてこの世に生をうけたのだ。それゆえ、人間はすべて善人ばかりで、悪人はいない。
こうしてみると、中江藤樹の教えは、まさに、“人間賛歌”の言葉だといわざるを得ない。江戸時代初期の儒学者ながら、身分の上下を超えた平等思想を説いた、“近江聖人”の呼び名そのものだ。
(参考資料)内村鑑三「代表的日本人」、童門冬二「中江藤樹」、童門冬二「私塾の研究」