『I f 』⑱「関白・秀次の挫折がなければ、天下の柳生新陰流はなかった?」

『I f 』⑱「関白・秀次の挫折がなければ、天下の柳生新陰流はなかった?」
 柳生新陰流は徳川将軍家の御家流として繁栄しました。将軍家指南役とし
て柳生宗矩(むねのり)は大名にまでなりました。だが、これは柳生家にと
ってはこれ以上望めない幸運に恵まれた結果だったのです。
 柳生三代といわれる宗厳(むねよし)・宗矩・三厳(みつよし)と徳川家
との関わりは、初代・石舟斎(せきしゅうさい)宗厳と家康との関係がそも
そもの始まりです。1594年(文禄3年)5月、家康は柳生の評判を聞き、一度
実際に自分の目で柳生の剣の使い方をみてみたいと考え、宗厳を招いたので
す。このとき宗厳は子の宗矩を連れていき、求められるまま、家康の面前で
柳生新陰流の妙技“無刀取り”を披露しました。
 家康は一目見ただけで気に入ってしまい、即座に「入門したい」といい、
宗厳・宗矩父子を召し抱えたいと考えたのです。ところが、あいにくその時
点では、宗厳は関白・豊臣秀次に仕える身で、結局まだ仕官していなかった
子の宗矩が家康に召し抱えられることになりました。後に但馬守の受領名を
与えられ、柳生但馬守として知られています。宗矩はこのとき24歳、1000石
からのスタートでした。

関白秀次が健在なら柳生家親子は戦場で対立する可能性があった
 柳生家がこれだけ繁栄、徳川の剣、「天下の剣」になるには、宗矩だけの
才覚、努力では恐らく無理だったでしょう。なぜなら、既述の通り、父・宗
厳は関白秀次に仕えていたのですから、秀次が健在なら早晩、父子が双方の
指南役の一人として対立する、あるいは戦場で激突する可能性があったので
す。
 また、そうした状況になれば、徳川家も柳生家を信頼して重く用いること
はできなかったはずです。とくに戦になりそうな情勢になれば、疑心暗鬼で
宗矩は出世どころか、徳川家の中枢からかえって遠ざけられたのではないで
しょうか。

秀頼誕生による関白秀次の挫折に救われた柳生親子
 ところが、ここで歴史の流れは柳生家に味方しました。そうした事態をつ
くってくれたのは天下人・豊臣秀吉でした。秀吉は側室・淀君が産んだ秀頼
を跡継ぎにするため、秀次排除に動いたのです。宗矩が徳川家に召し抱えら
れた翌年、宗厳が仕えていた秀次は高野山で切腹させられたのです。こうし
て柳生家はちょうど、うまいタイミングで豊臣家から徳川家に乗り換えられ
たわけです。
 三代将軍家光のとき、宗矩は「惣目付」の一人に任命され、これが後に、
諸大名・旗本の監察役、「大目付」と改称されるのです。大目付の中で、
柳生家は別格でした。これと連動して出てくるのが「十兵衛隠密説」です。
柳生十兵衛は、宗矩の長男で、名乗りを三厳といいますが、一般的には十兵
衛の名でよく知られています。山岡荘八の『柳生十兵衛』、五味康祐の『柳
生武芸帳』などに登場するヒーローです。

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