『I f 』⑰「織田信長の出自が平氏ではなく、源氏だったら」
「本能寺の変」(1582年)で明智光秀に討たれた織田信長の出自が平氏で
なく、源氏だったら、信長はいま少し生き延び、名実ともに征夷大将軍か関
白、あるいは太政大臣となって信長治世の時代が続いていたのではないとの
見方があります。
本能寺の変の前、朝廷は信長を征夷大将軍にする腹を固めていた
本能寺の変が起きる3カ月ほど前、信長は甲斐の武田勝頼を討ち、武田氏
を滅亡させています。その結果、朝廷ではこれで東国が治まったと判断して、
信長を征夷大将軍にする腹を固めていたようです。確実な史料がないので、
断定はできないのですが。
ただ、そのことをうかがわせる公家の日記はあります。勧修寺晴豊
(かじゅうじはれとよ)の日記『日々記(にちにちき)』によって、このと
き朝廷では、信長に「征夷大将軍でも、関白でも、太政大臣でも、お好きな
官に任命しましょう」といって、信長側の反応を打診していたのです。そし
て、信長は征夷大将軍になりたいとの希望を持っていたようです。
光秀は平姓・信長の将軍出現を許せなかった?
この朝廷とのやり取りを知り得る立場にいた織田家の家臣は、森蘭丸など
の小姓たちを別にすると、重臣クラスでは明智光秀だけでした。光秀は信長
の将軍任官を黙って見過ごすことができなかったのです。それはなぜか。
信長が平氏の人間だったからです。征夷大将軍には、古代の坂上田村麻呂
や、後醍醐天皇の皇子たちを別にすれば、武士では源氏の人間しか任命され
てこなかったのです。出自が美濃源氏の光秀にとって、そうした先例を破る
平姓将軍の出現を許すことができなかったのではないでしょうか。
光秀謀反の真因については、怨恨説をはじめ諸説あり、いまだに謎です。
ライバル豊臣秀吉に追い越される不安、いつ織田家におけるその立場を追わ
れるかも知れないという不安が要因としてあったことは間違いないでしょ
う。が、一番の原因はこれまであまり指摘されていないことですが、信長に
よる「平姓将軍の出現阻止」だったのではないでしょうか。
家康は天下取りの展望が開けた時点で出自を平氏→源氏に
そんなことが謀反を起こす大きな原因になるのか?と思われる読者の方も
おられるかと思いますが、実は武家社会においてこの出自は、非常に大事
な、ある場合には歴史を動かすモチベーションにもなるのです。当時、それ
まで流人の身だった源頼朝が、東国武士に担ぎ上げられて征夷大将軍とな
り、遂に鎌倉幕府を開くのも彼が源氏の嫡流だったからです。室町幕府の
足利家も、出自は清和源氏の流れです。また、徳川家康が系図上、一時は
そのルーツを平氏としていたにもかかわらず、天下取りの展望が開けてきた
時点で書き換え、出自を源氏としたのも、何よりも武家として征夷大将軍に
任じられるには、資格上、源氏の流れでなければならない、あるいは平氏の
ままでは難しいと認識していたからにほかなりません。
いずれにしても、信長が本能寺で討たれていなければ、朝廷から信長が
征夷大将軍に任じられ、安土に幕府が開かれ織田政権が誕生。そうなると、
後継の豊臣政権への移行過程が変わり、恐らくその「安土・桃山時代=織豊
政権」の性格も実際の歴史とは異なったものになっていたことでしょう。