第65代花山天皇は父の冷泉天皇と同様、藤原元方の怨霊にとりつかれ、乱心の振る舞いがあったと伝えられるが、藤原一家の策謀により、在位わずか二年で退位させられた人だ。少し奇異な所業が目立ったにしろ、荘園整理令の布告など革新的な政治路線も打ち出しており、無事ならまだまだ善政が敷かれていたはずだ。生没年は968(安和元年)~1008年(寛弘5年)。
花山天皇は冷泉天皇の第一皇子。母は太政大臣正二位藤原伊尹(これただ)の娘、懐子(かいし)。諱は師貞(もろさだ)。984年(永観2年)、円融天皇の譲位を受けて即位した。17歳のことだ。即位式において、王冠が重いとしてこれを脱ぎ捨てるといった振る舞いや、清涼殿の壺庭で馬を乗り回そうとしたとの逸話がある。こうした所業が直ちに表沙汰にならなかったのは、天皇に仕えた賢臣、権中納言藤原義懐(よしちか)と左中弁藤原惟成(これしげ)の献身的な支えによるところが大きい。
関白は先代から引き続き藤原頼忠(よりただ)だったが、実際の政治は義懐や惟成ら新進気鋭の官僚により推進されていた。饗宴の禁制を布告して宮廷貴族社会の統制、引き締めを図り、902年(延喜2年)に出されて以来、布告されていなかった荘園整理令を久々に布告するなど、革新的な政治路線を打ち出した。この荘園整理令は、受領らの間で高まってきていた荘園生理の気運を政策化したもので、以後、頻出する整理令の嚆矢となった。
花山天皇については様々な多くのスキャンダルが聞かれるが、中でも大納言藤原為光の娘、女御・_子(きし)への寵愛ぶりはとくに知られている。そのため_子はほどなく懐妊したが、その後体調を崩して遂に妊娠8カ月の身で他界した。天皇の落胆ぶりは大きく、いかに神に祈祷すべきか悩みぬいていた。
この様子を見て陰謀をめぐらせたのが右大臣、藤原兼家だ。兼家は天皇の不安定な心理状態を利用し、天皇に出家を勧めて、一日も早く外孫懐仁(やすひと)親王へ譲位させようと謀ったのだ。「大鏡」によると986年(寛和2年)、藤原兼家の次男、蔵人・道兼が言葉巧みに花山天皇を連れ出し元慶寺へ向かう。そのころ兼家の長男の道隆と三男の道綱は清涼殿に置かれていた神器を皇太子・懐仁親王の部屋へ移す。
いったんは出家を納得した花山天皇だったが、心変わりしそうな雰囲気に、道兼は涙ながらに自分もともに剃髪、出家するからと天皇を説き伏せ剃髪させてしまう。そして、次は道兼の番になったが、道兼はどこにもいない。花山天皇が騙されたと思ったころには、“役者”の道兼は丸坊主になった花山天皇を残して藤原家に帰ってきていた。そのころには兼家の末子、道長が関白、藤原頼忠(兼家の従兄弟)に天皇行方不明の報告をしていた。そこで懐仁親王(当時7歳)が即位して一条天皇となり、兼家は念願の外祖父となったのだ。
こうして兼家・道兼父子の謀略によって、無念の思いで皇位を追われた花山上皇はその後、仏門修行、そして和歌と女に明け暮れたといわれる。とくに歌人として優れており、多くの和歌を残している。
(参考資料)永井路子「この世をば」、笠原英彦「歴代天皇総覧」、梅原猛「百人一語」