日本史において15世紀後半は「暗黒の時代」といわれている。足利幕府の統治力が緩み、管領はじめ有力大名の内輪もめを抑えるどころか、家督争いのゴタゴタは将軍家にまで波及し、それがエスカレートした結果、遂に10年余にわたる「応仁の乱」が勃発。都は荒れ果て、一揆・暴動が洛中洛外に蜂起して、さながら無政府状態に似た状況となった。それにもかかわらず、総責任を負う立場にある将軍足利義政は、浪費に明け暮れる政治家失格者で、幕僚・側近に人材なく、幕府の威令はいよいよその重みを失って、戦国乱世の様相へのめり込んでいった。すべて“無責任”将軍義政が招いたものだ。確かに義政の政治に対する無策・無関心には目を覆うものがあるが、そんな気質を育んだ環境にも原因はあったようだ…。足利義政の生没年は1436(永享8)~1490年(延徳2年)。
足利義政は、六代将軍・足利義教の子として生まれた。とはいえ、すでに兄に二歳年長の義勝がいたから、義政の立場は暢気なものだった。足利宗家では嫡流の惣領以外は、男女を問わず子供は門跡寺院などに入室させて、僧尼にさせてしまう慣例があり、義政の場合もそんなレールが敷かれていたはずだった。
ところが、運命は彼の人生コースを大きく変えた。彼が6歳の時、父の義教が赤松満祐に暗殺されたのだ。「嘉吉の乱」だ。青蓮院門跡から還俗して将軍位に就いた義教が幕府権威の伸張を急ぐあまり苛烈な独裁政治を断行した反動だった。その赤松一族は誅滅させられ、七代将軍の位は義勝が継いで、乱の収拾もついたかにみえた2年目だった。今度は少年将軍義勝が病気であっけなく亡くなってしまったのだ。本来なら仏門に入っておとなしくのんびりと、好きな庭造りや香・華・能など遊びの道を楽しみつつ一生を終わるべく運命付けられていた次男坊の義政が、幸か不幸か8歳の若さで八代将軍の座に座らされ、いやおうなく歴史の表面に引きずり出されることになったのだ。
将軍義政に対する閣僚・諸大名らの目は、二代続いての不幸に懲りて、将軍は幕威をシンボライズする旗であればそれで足りる。適当に骨を抜いておいた方が牛耳り易い。変に政務に欲など出してくださるなと、幼少の義政に“無能”教育を施したきらいがあるのだ。それにしては、青年期の義政は頑張った。側近・重臣の思惑通りに操られる傀儡ばかりで過ごしたわけではない。
そんな義政も後半生は最高権力者としての責任を放棄、何もしない無責任で怠惰そのものの、優柔不断で自堕落な将軍に成り下がっている。そして、妻の日野富子には全く相談もせずに、義政は自分の弟で出家して義尋(ぎじん)と名乗っていた僧を口説いて、自分の後継者にしようとしたのだ。このとき義政はまだ30歳そこそこだ。妻の富子は25歳で当時としては若くはないが、まだまだ子供を産める年齢だ。側室をもうければ男の子が生まれないとは限らない。むしろこれから生まれる可能性の方が高い。それなのに、なぜ義政は引退など考えたのか?趣味に生きたい義政は、将軍の座を引退することによって、面倒な儀式や将軍として最低限果たさなければならない義務を放棄し、その代わり大御所として気ままに生きようと考えたのだ。
義政に今後男の子が生まれても、それは出家させ決して跡継ぎにしない、という条件を義政が確約したため、当初、兄義政の申し出を断っていた義尋は、結局その申し出を受けた。還俗して義視と名乗り屋敷を京の今出川に構えた。
ところが1年後、妻富子が男の子を出産したため、義政の軽率な決定が大きな問題となってしまった。富子は何が何でも自分の腹を痛めた子を将軍にしたい。そこで、彼女は気の弱い亭主の義政を何度も攻め立てたというわけだ。義政も弟よりは自分の子供の方を将軍にしたいと思ったに違いないが、自分が楽隠居するために、弟を無理矢理、還俗させ養子にしたという負い目があった。そう簡単に約束事をほごにできない。結局、義政は将軍を辞めるに辞められなくなった。
こうして義政の、政治などしたくないというわがままと、富子の自分の子を何が何でも将軍にするというわがままが、10年余の長きにわたり国内を二分する、日本未曾有の大乱「応仁の乱」の種を蒔いたのだ。全く人騒がせな夫婦だが、それにしてもその大元の責任はやはり義政の優柔不断で、軽率な行動にあった。引退するなら、それに伴うルールと約束をきちんと守る覚悟が必要なのだ。
(参考資料)井沢元彦「逆説の日本史・中世混沌編」、杉本苑子「決断のとき」、司馬遼太郎・ドナルド・キーン対談「日本人と日本文化」