調所笑左衛門広郷(ずしょ・しょうざえもん・ひろさと)は薩摩藩の前藩主(八代)・島津重豪(しげひで)に茶坊主として仕え、のち還俗。その後、御用人・側役を兼任、5年後、藩財政の困窮に際して財政改革担当を命じられ、大番頭・大目付格を経て1833年、家老となった。その間の改革全権を委任され、破綻していた藩財政を立て直した。
その過程で、琉球を通じた密貿易はじめ法スレスレの諸施策もあったが、その事績は薩摩藩への貢献大なるものがある。具体的にいえば、調所は財政改革に取り組んで20年で500万両の赤字を埋め、60万両もの黒字を出し、幕末政界において薩摩の位置を重くした人物だ。
調所広郷は下級士族、川崎主右衛門の子で、13歳で調所清悦の養子になった。幼名は清八、友治、笑悦。通称・笑左衛門。調所家は御小姓与(ぐみ)の家格だった。島津家の家臣では最も低い家格だ。西郷隆盛の家と同じだ。勤めは茶坊主だ。笑左衛門も15歳のとき茶坊主として勤めるようになった。茶坊主の給米は4石というわずかなもの。そのために髪を切らねばならない。その屈辱が彼の成長に何らかのプラスになったのではないか。生没年は1776~1848年。
調所広郷は25歳で江戸に出、前藩主(島津氏25代当主)重豪付きの茶坊主になった。この重豪との出会いが調所の人生を一変させる。重豪は徳川八代将軍吉宗の武断主義に、十一代の家斉の豪奢を合わせたような傑物だ。その家斉は重豪の二女を夫人にしていた。
重豪は長崎を通じて外国の学問文化に目を注いでいた。参勤交代が終わって帰国の途中、わざわざ長崎に寄って20日間も滞在。出島やオランダの船を見学したことがある。数ある大名のうち、自分で長崎を見たのは彼ぐらいだろう。歴代の商館長とはいつも書信を交わしていたし、有名な医師シーボルトには自分から願って教えてもらったこともある。「成形図説」という大部の農学百科を編集、領内に頒布して農業技術の向上を図った。漢語もかなり話せたようだし、学術用語ぐらいならオランダ語も分かった。
重豪は77万石の大守で、将軍家斉の義父という体面があるから、江戸の外交経費も惜しまない。高輪の屋敷には西洋風の家を造ったこともある。また、薩摩には宝暦の木曽川治水工事お手伝いという財政上の大苦難があった。巨額の費用と多くの人材を失い、幕府の命令どおりに工事を終了したが、この痛手がすっかり直らないところに、重豪の収入を上回る積極財政が展開されたから、藩財政は困窮した。こうした事態に陥って、重豪はバカ殿様ではないから考え、本来この財政難を立て直すのが自分の任務だろうが、それは性分には合わないと判断。1787年(天明7年)、藩主の座を斉宣(15歳)に譲った。ただし、「政務介助」の名目のもとに実権は握り続けた。
新藩主・斉宣の側近、樺山主税・秩父秀保・清水盛之らは「近思録派」と呼ばれ、保守的・精神主義・素朴復古・倹約最優先だったから、重豪が32年間にわたって展開してきた開明政策を批判、あるいは否定するものだった。そうなると、重豪は黙っていられない。真っ向から対立、お家騒動に発展した。「近思録くずれ」「秩父騒動」などと呼ばれ、薩摩藩はこのとき完全に二分した。翌年、重豪は斉宣を藩主の座から引きずり降ろし、斉宣の子の斉興を据えた。
江戸詰めで重豪の側に仕えていた調所は、大騒動のあった2年目に茶道頭になった。それから4年、40歳で御小納戸頭取御用、御取次見習になった。この時点で調所は幹部の一員になったといっていい。彼を昇進させたのは重豪だ。その後、1822年(文政5年)から2年間、彼は鹿児島の町奉行を務めた後、江戸に呼び返され御側御用人、御側役になった。藩庁と藩主個人との間をつなぐ役だ。また同じ頃、先々代重豪と先代斉宣の生活費を工面する仕事を仰せつかる。実はこれが琉球貿易による独立会計だった。
1827年(文政10年)、調所の人生にとってヤマがきた。重豪の名代として改革をやれ、家老を指揮すべし、という命令が下ったのだ。調所は拝命にあたり「絶対に罷免しない、批判は許さない」という重豪の「直書」をもらい、この後、20年もの長期にわたって藩政改革を指導することになる。重豪は大坂商人との500万両踏み倒しの成功を見ぬうち、1833年(天保4年)、88歳で死んだが、斉興は重豪の改革方針継続を表明。以後、調所と斉興は二人三脚で大改革を推進していく。そして、破綻していた藩財政の立て直しに成功する。
(参考資料)加藤_「島津斉彬」、奈良本辰也「日本史の参謀たち」、童門冬二「江戸管理社会反骨者列伝」