武市半平太(たけちはんぺいた)は土佐勤王党の盟主で幕末、土佐藩政を担った公武合体派の参政、吉田東洋の暗殺を指示。その後の土佐藩を主導しようとしたが、“暗殺”という非常手段に訴える、その激烈な手法が明るみに出るに及んで支持を得られず、東洋暗殺の首謀者として真相発覚後、志半ばで死んだ。
しかし、彼は単なるテロリストの頭目だったわけではない。西南雄藩、とりわけ薩摩・長州両藩が表面的には討幕へ統一されていくのにひきかえ、土佐藩内が藩上層部および上・下士がばらばらで、これでは薩長と伍していくことができないと判断。そうした焦慮の思いから、短絡・直情的に事を運び断行したものとみられている。では実際に、彼は直情径行的な人物だったのか。いや、周囲の情勢を見極めたうえでも、そうした行動を取らざるを得なかったのか?半平太の生没年は1829(文政12)~1865年(慶応元年)。
武市半平太は土佐長岡郡仁井田郷吹井(ふけい)村で、郷士・武市半右衛門正恒の長男として生まれた。幼名は鹿衛、諱は小楯(こたて)、号は瑞山。通称半平太。身長六尺、鼻が高く顎が張って、色は白く喜怒が分かりにくい容貌だったといわれる。武市家はもともと土地の豪農だったが、身分は低く、半平太より5代前の半右衛門が1726年(享保11年)、郷士に取り立てられた「下士」の家だ。
後に半平太は上士格に昇格するが、これも「白札」という身分としては郷士だが、当主は上士に準ずるといった扱いだった。幕末においても土佐藩では上士・下士の間で動かし難い、また厳しい階級・身分格差があった。そのため、「下士」身分の者は生涯、「上士」の者からは動物と同等の卑しい者と見なされ、たとえどのような理不尽なものであれ、「上士」に斬り殺されても「下士」の者は口ごたえすることは許されず、苦しめられていた。
1856年(安政3年)、半平太は江戸の桃井春蔵の門に入り、鏡心明智流を学び、その後、剣客として知られるようになった。そして文久元年、長州の久坂玄瑞、薩摩の樺山三円らと会して薩長土三藩が提携し、尊攘運動を推進することを約束して、帰国。「土佐勤王党」を結成し、盟主となった。その盟約書には坂本龍馬はじめ中岡光次(慎太郎)、間崎哲馬(滄浪)、浜田辰弥(田中光顕)、平井収二郎ら192名が署名血判しており、そのほとんどが終身二人扶持の武市と同じような身分の低い「下士」である郷士・庄屋・従士・足軽階級の若者だった。
半平太はまず当時、土佐藩政を握っていた公武合体・開国派の参政、吉田東洋を那須信吾、大石団蔵、安岡嘉助に指示、暗殺させ、その首を城下雁切橋のたもとに晒した。そして、彼は諸藩の有志と接触し、勅使・三条実美、姉小路公知の雑掌、柳川左門と名乗って随うなどの活躍で同志の間に重きを成し、上士格に出世した。この頃がいわゆる「天誅」が横行する時期の始まりだ。彼は吉田東洋暗殺による藩首脳人事の変化をみて、暗殺という非常手段の効果の大きさを知ったのだ。したがって以後、配下の岡田以蔵、薩摩の田中新兵衛らによる一連の「天誅」「斬奸」は、必ずしもすべてが半平太の指示によるものではないが、彼が深く関与していたものとみられる。
土佐藩主後見役の山内容堂は、勤王党による「天誅」「斬奸」が横行している状況を苦々しい思いでみていた。ただ、対策として打つ手はなかった。ところが、事態は京都の「八月十八日の政変」(1863年)を境に激変する。この政変でこれまで朝議をリードしていた長州藩は京都政界から追われ、三条実美ら七人の公家が長州に落ちたためだ。
昨日までの正義派は一夜にして、朝廷の不興を被っている者どもということになったのだ。容堂にとっては、待ちに待った機会だ。「天朝に対し奉って、そのままにさしおき難き不審の者ども」という名目で、半平太をはじめ勤王党の主だった者数人に出頭を命じ、一網打尽に入牢させた。
東洋暗殺の下手人は誰か?厳しい取り調べが始まった。拷問も行われたが、誰も白状しない。藩庁では苦慮していた。ところが、岡田以蔵が京都で捕えられて国許に移送されてきたことで、事態は急変。以蔵が拷問に耐えられず、白状したため遂に一切が明らかになり、半平太以下処刑される。半平太は切腹、岡田以蔵は梟首、岡本次郎、村田忠三郎、久松喜代馬は斬首、その他は永牢となった。1867年(慶応元年)のことだ。
この事件は土佐勤王党を壊滅させた。同党の同志は藩庁の処置を憤って反抗したため、捕えられ斬首され、生き残った連中はそのほとんどが脱藩してしまったからだ。維新運動の末期に、土佐藩は薩摩・長州両藩と協力して、後藤象二郎は大政奉還運動の立役者となり、板垣退助は藩兵を率いて伏見・鳥羽に戦い、東征し会津にも行って武功を立てているが、二人とも「上士」出身で、この時点ではアンチ武市派で、勤王党を迫害した仲間だ。
(参考資料)海音寺潮五郎「幕末動乱の男たち」、司馬遼太郎「司馬遼太郎が考えたこと 4」、司馬遼太郎「歴史の中の日本」、童門冬二「坂本龍馬の人間学」