今日ではごく当たり前の女流作家。しかし、明治初頭、どれだけ頭がよくて学校の成績が良くても、女性に学業は不要だと考える人が多く、女性にとって作家という職業は未開のものだった。そんな社会・環境の中で、樋口一葉は近代以降では最初の職業女流作家となった。
一葉は、現在の東京都千代田区の長屋で男2人・女3人の5人兄妹の第五子、次女として誕生。父・樋口則義は、南町奉行配下の八丁堀同心だった。そんな士族の娘である誇りが彼女を支え、恐らく彼女を凛とした女性にしたのだ。
ただ父・則義は、本来は甲州(現在の山梨県)農民で、株を買って入り込んだのだ。父は妻あやめ(後、たき)とともに出奔同然に村を捨てて江戸に出た。下僕をしたり、旗本に中小姓として仕えたり、妻あやめは旗本屋敷の乳人奉公をしたりして蓄財をした。やがて、彼らは八丁堀同心浅井竹蔵の三十俵二人扶持の株を買って、樋口為之助と名乗った。あやめは「たき」と名を変えた。
しかし、そんなに簡単に株を買えるのか。司馬遼太郎氏は「株を買うのに二、三百両は要ったろうし、そんな金が武家奉公の蓄財でできるはずもない。借金したとすれば、樋口家の宿業(しゅくごう)ともいうべき貧乏は、これが原因だったに相違ない」と記している。
父は明治20年、一葉が16歳のとき警視庁を退職し、その翌年、事業を興そうとして失敗した。これが樋口家の借金をさらに増やすことになった。遂に明治22年、破産し、その年に父は病没した。
その結果、一葉は17歳の若さで戸主として一家を担う立場となり、生活に苦しみながら、わずか24年8カ月の生涯の中で、とくに亡くなるまでの1年2カ月の期間に作家として完全燃焼。森_外、幸田露伴はじめ明治の文壇から絶賛された「たけくらべ」「にごりえ」「十三夜」など日本の近代文学史上に残る秀作を残し、肺結核で死去した。生没年は1872~1896年。一葉は雅号で、戸籍名は奈津。なつ、夏子とも呼ばれる。
少女時代までは中流家庭に育ち、幼少時代から読書を好み草双紙の類を読み、7歳のときに曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を読破したと伝えられる。1881年、上野元黒門町の私立青海学校高等科第四級を首席で卒業するも、上級に進まず退学した。これは彼女の母・多喜が女性に学業は不要だと考えていたからだという。
ただ、父・則義は娘の文才を見抜き、知人の和田重雄のもとで和歌を習わせた。これを機に一葉は中島歌子の歌塾「萩の舎」に入門し歌、古典を学び、後に東京朝日新聞・小説記者の半井桃水(なからいとうすい)に師事し小説を学んだ。一葉の家庭は転居が多く、生涯に12回の引越しをした。
一葉の処女小説は桃水主宰の雑誌「武蔵野」の創刊号に発表した『闇桜』。桃水は困窮した生活を送る一葉の面倒を見続け、一葉も次第に桃水に恋慕の感情を持つようになるが、二人の仲の醜聞が広まったため、桃水と別れる。二人とも独身だったが、当時は結婚を前提としない男女の付き合いは許されない風潮が強かったためだ。この後、一葉はこれまでと全く異なる幸田露伴風の理想主義的な小説『うもれ木』を刊行し、彼女の出世作となった。
ヨーロッパ文学に精通した島崎藤村や平田禿木などと知り合い、自然主義文学に触れ合った一葉は、「文学界」で『雪の日』など複数作品を発表。1894年『大つごもり』を「文学界」に、翌年1月から『たけくらべ』を7回にわたって発表し、その合間に「太陽」に『ゆく春』、「文芸倶楽部」に『にごりえ』『十三夜』などを相次いで発表した。1896年、「文芸倶楽部」に『たけくらべ』が一括掲載されると、_外や露伴から絶賛を受け、一躍注目を浴びる存在となった。
一葉の肖像は2004年11月1日から新渡戸稲造に代わり日本銀行券の5000円券に新デザインとして採用された。女性としては神功皇后以来の採用だ。写真をもとにした女性の肖像が日本の紙幣に採用されたのは一葉が最初である。
(参考資料)司馬遼太郎「街道をゆく37」、「樋口一葉」(ちくま日本文学全集)