幕末期の幕臣、栗本鋤雲(くりもとじょうん)は幕府の昌平坂学問所に学び“お化け”といわれるほどの秀才だったが、維新後も政府からの出仕要請を固辞。幕臣の矜持を貫き通した人物だ。生没年は1822(文政5)~1897年(明治30年)。
栗本鋤雲は幕府の典医を務めていた喜多村槐園(きたむらかいえん)の三男として生まれた。名は鯤(こん)。初名は哲三(てっさん)。瑞見。通称は瀬兵衛。1830年(文政13年)9歳のとき、安積艮斎の塾に入門。1843年、幕府の昌平坂学問所に入学し、校試において優秀な成績を修め褒賞を得ている。また、多紀楽真院、曲直瀬養安院のもとで医学と本草学を学んでいる。
1848年、17歳のとき奥医師・栗本瑞見の養子となり、六世瑞見を名乗り、家督を継ぎ、次いで奥医師となった。安政年間、医学館で講書を務めており、各年末には成績優秀により褒美を与えられている。このままゆけば、ずっと医師のコースを進み、法眼か法印ぐらいまで出世する、はずだった。
順風満帆だった鋤雲だが、思いもかけない“蹉跌”が訪れる。1855年(安政2年)34歳のとき、オランダから献上された幕府蒸気船観光丸の試乗に応募したことから「漢方を旨とする奥詰医師が西洋艦に乗りたいとは不届き」と時の奥詰医長の咎めを受けたのだ。そして遂には侍医から追われて一時謹慎。1858年(安政5年)、蝦夷地在住を命じられて、函館に赴任することになったのだ。左遷だ。37歳のときのことだ。以後、鋤雲は函館で医学院の建設、薬園経営に尽力した。ただ、すぐその実力を認められて1862年、箱館奉行組頭に任じられ、樺太や南千島の探検を命じられた。
1863年、思いもかけない転機が訪れる。探検から戻ると幕府から即座に江戸へ戻るよう命令が出る。幕府も箱館における鋤雲の功績を評価していたため、昌平坂学問所の頭取、目付に登用された。鋤雲は箱館時代、フランス人宣教師メルメ・ド・カションと親交を結んだほか、フランス駐日公使ロッシュの通訳を務める人物と面識があったため、その経緯からロッシュとも仲が良くなった。上司の指示でメルメ・ド・カションに日本語と日本の書物の読み書きを教え、同時にカションからフランス語の伝授を受けたのだ。そのため幕府よりフランスとの橋渡し役として外国奉行に任じられる。そこで鋤雲は幕府による製鉄所建設や軍事顧問招聘などに尽力している。
また、彼は徳川昭武一行がパリで開催された万国博覧会の視察に訪れたときには、その補佐を命じられフランスに渡った。そして、そこで日本の大政奉還と徳川幕府の滅亡を知った。
ヨーロッパにいた留学生をまとめ、引率して日本へ帰ったのが1868年(明治元年)の5月だった。幕府はすでになくなっている。47歳の鋤雲は隠退の道を選んだ。新政府からどんなに求められても官職には就かなかった。幕臣として幕府に忠義を誓い、重用された恩があるとの思いからだった。鋤雲とはそんな人物だった。
1872年『横浜毎日新聞』に入り、翌年『郵便報知新聞』に編集主任として招かれた。この『郵便報知新聞』が維新後の鋤雲の、控えめな活動の舞台だった。月給150円。主筆を務めたこともあるが、自分はもっぱら文芸欄を担当、早いうちに主筆のポストを藤田茂吉に譲って一記者に戻った。主に随筆を書いて、1885年に同社を退くまで才筆を振るい、成島柳北、福地桜痴らとともに、当時の新聞界を代表するジャーナリストとして声名を馳せた。
(参考資料)奈良本辰也「男たちの明治維新」、大島昌弘「小栗上野介 罪なくして斬らる」