安積艮斎(あさかごんさい)は、ペリー来航時のアメリカからの国書翻訳や、プチャーチンが持参したロシア国書の返書起草などに携わった、幕末の朱子学者だ。ただ、艮斎の功績はそれだけにとどまらない。むしろ図抜けた教育者としての功績が圧倒的に大きい。
艮斎が開いた私塾「見山楼」の門人には小栗上野介、吉田松陰、高杉晋作、木村芥舟(摂津守)、秋月悌次郎、岩崎弥太郎、川路聖謨(かわじとしあきら)、栗本鋤雲、間崎哲馬、斎藤竹堂、谷干城、清河八郎、福地源一郎、中村正直、権田直助など、2282人の名前が門人帳に記されており、幕末・明治の動乱期に活躍した人物に与えた影響は大きい。
したがって、私塾「見山楼」は今日風に表現すれば、“超”有名私立大学で、ここに籍を置くことがある意味でステータスだった側面があったのかも知れない。門人帳にはそれほど、後世に名が残る人材がきら星のごとく名前を連ねている。艮斎の生没年は1791(寛政3)~1861年(万延元年)。
安積艮斎は陸奥・二本松藩の郡山(現在の福島県郡山市)にある安積国造神社の第55代宮司の安藤親重の三男として生まれた。幼名は兵衛、名は重信、通称は祐助。字は思順(しじゅん)・子順(しじゅん)とも。号は艮斎(ごんさい)。別号は見山楼。
艮斎は幼いころから学問に興味を持っていた。5歳から11歳ごろまで約6年間、二本松藩の寺子屋で学問に励んだ。16歳で婿入りしたが、容貌がよくなく、日夜読書に耽るので妻に嫌われ、実家に戻った。恐らく、落ち込んだことだろうが、その後の切り替えがやはり違う。17歳で学問を志して江戸に出奔。当初、日蓮宗妙源寺の日明和尚のもとで生活した。その日明和尚の紹介で、当時一流の学者だった佐藤一斎の学僕・門人となって、苦学した。そして20歳から一斎の師、将軍家顧問格の学者だった大学頭・林述斎の門下生となり朱子学を学んだ。林述斎は幕政顧問として、当時の文教政策を取り仕切る大物だ。
1814年(文化11年)、24歳で江戸駿河台の小栗忠高邸内に長屋を借りて私塾「見山楼」を開いた。この小栗忠高の子が小栗忠順(のちの小栗上野介)で、この13年後に出生する。艮斎は門弟の教育と学業研鑽に励んだ。そして、41歳のとき『艮斎文略(ごんさいぶんりゃく)』を出版、艮斎の名は天下に知られるようになった。この間、塾は何回か移転するが、小栗邸の塾を残して続けられた。小栗剛太郎(上野介の幼名)は数え年9歳のとき入門している。このとき艮斎46歳だった。
艮斎は1843年(天保14年)、二本松藩・藩校敬学館の教授、そして1850年(嘉永3年)には幕府の昌平○教授に任命された。艮斎60歳のときのことだ。
幕府の公的学問所の教授となったことで、艮斎は幕末の動乱期の外交文書にも様々な形でタッチすることになった。まず、1853年のペリー来航時のアメリカからの国書の翻訳だ。また、プチャーチンが持参したロシア国書に対する返書の起草などにも携わった。
艮斎は朱子学者だったが、陽明学など他の学問や宗教を排することなく、学派を超えてよいものを取り入れようという自由な学風を貫いた。洋学にも造詣が深く、渡辺崋山、高野長英ら開明的な学者や幕臣が会した尚歯会にも出入りした。1848年(嘉永元年)には『洋外紀略(ようがいきりゃく)』を著し、世界史を啓蒙、海外貿易の必要性を説いている。
このほか、艮斎は開国か鎖国かと世論が分かれる中、幕府に対して、外交に関する意見書として『盪蛮彙議(とうばんいぎ)』を提出した。
艮斎は、師の佐藤一斎とともにアカデミズムの頂点に立つ学者として知られ、没する7日前まで講義を行っていたと伝えられている。
著書に上記のほか、『艮斎詩略』『史論』『艮斎間話』などがある。
(参考資料)